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column 04 【コラム❷】 丸の内の公共空間の系譜 塚本由晴[建築家 東京工業大学大学院 教授]

社会のあり方が表現される公共空間

偽札使用の嫌疑で、警官に膝で首を抑えられた黒人男性が亡くなったのをきっかけに再燃したBlack Lives Matter、香港における国家安全維持法に対する抗議等、緊張状態にある世界各地の広場や街路が毎日のように報道されている。これらのデモは、ひとりひとりの人権が守られていて平等であるという、民主主義社会の理念が損なわれる、あるいはその恐れがある場合に(例えば人種差別や地域の自治)、人びとが異議を唱え、日常的に利用されている公共空間に自らの身体を晒してこれを一時占拠し、自由な意見を述べて交流することである。逆に言えばデモを受け止められる公共空間がない社会は、人権が守られていない不平等な社会ということになる。公共空間はデモによってその背後にある社会体制を検査、点検されている。だが封建的な社会にも公共空間は存在した。宮殿、教会、マーケットの前の広場や、橋がかり等は、人びとの自由な振る舞いと共に、身分階層や不平等が表現される場でもあった。死刑も執行された。古代ギリシャのアゴラでは、市民による直接民主主義的な議論が行われていたというが、メンバーシップは、家内作業や食料生産を下僕や奴隷に任せられる人たちに限られていた。
つまり平和的であろうと残酷であろうと、民主的であろうとなかろうと、社会のあり方がそのまま表現されるのが公共空間なのである。西欧の歴史ある街を旅すると、人びとの振る舞いがなんとなく優雅に感じられる広場や街路に出会う時がある。それらは、封建社会や君主制の時代に整えられたものだが、市民革命などで人びとが血を流し、理念や、振る舞いを書き換えてきた歴史の場所である。

一方日本の多くの都市では、大火、震災、戦災から復興、高度経済成長を経て、20世紀後半にほぼすべての公共空間がつくり変えられた。自動車の登場は、街路から振る舞いの多様性を奪い、新しい民主主義の希望に燃えて市庁舎前や公共建築の前に広場がつくられたが、建物を立派にみせるだけで人びとが集う場として成功したとは言い難い。理念先行でそんな場所を急に与えられても、人びとはどう振る舞ってよいか分からない。20世紀を通してそのことを学んだ現在の公共空間の設計は、計画された空間において人びとがいかに自然に振る舞えるか?という問いかけを含んでいる。

丸の内の公共空間である街路の変遷

さて丸の内に近代的な街づくりが始められたのは130年以上前のこと。私企業の強いイニシアティブの下、これほど長きにわたって、まちづくりが行われてきた街は国内では類を見ない。周囲には占領下には進駐軍パレードが行なわれ、サンフランシスコ条約効力発生直後には「血のメーデー」があった皇居外苑をはじめ、「東京駅」(1914年竣工)、「東京フォーラム」(1997年竣工)等、広場を伴った多くの人が集まる施設がある。しかし丸の内の中心となるオフィス街の場合、床の蓄積が資本の蓄積につながるわけだから、広場の出る幕はない。代わりに壁面線を揃えた街路が公共空間となる。特に街区の中央を背骨のように貫く「丸の内仲通り」は、丸の内に街としてのアイデンティティを与えている。だが「丸の内仲通り」が現在のかたちになるまでにも紆余曲折があった。

大名屋敷などに占められていた丸の内は、明治維新後一度更地にされ、東京市区改正条例の制定(1888年)を機に、新しい経済中心となるよう民間に払い下げられた。取得したのは海運業で財をなしていた岩崎彌太郎(1835─85年)率いる三菱社。東京市が決めた主要道路に私道を加えた碁盤目の町割りを敷き、ジョサイア・コンドル(1852─1920年)を顧問に据えて設計した「第1号館」(1894年竣工)を皮切りに、西欧に範をとった煉瓦造のオフィスビルを次々に建設。日露戦争(1904─05年)の勝利に沸く中、馬場先通り沿いに「一丁倫ロンドン敦」を出現させた。当時の写真を見ると、舗装されていない道は幅26mとだだっ広く、自動車より人力車、自転車、歩行者方が多い。パースペクティブはまっすぐ皇居の二重橋の方に伸び、その先に伏見櫓が見える。これは落成したばかりの「明治宮殿」(1888年竣工)の正門石橋の方角でもある。つまり丸の内の街路の第1世代といえる「一丁倫敦」は、皇居外苑へと連続する欧化政策のショーケースでもあった。

一丁倫敦

「丸ノ内ビルヂング」1階のショッピングアーケード

次に三菱が着手したのは、馬場先通りに直行する全長400mに及ぶ「丸の内仲通り」である。2階建ての赤煉瓦建築を、向かい合わせで2棟ずつ、同じファサードで建設する手法で、幅13mの街路に強い視覚的統一を与えた。中にはオフィスだけでなくアパートも含まれていたようで、ロンドンのバックストリートのような界隈性が街路の第2世代に加わった。

辰野金吾(1854─1919年)による「東京駅」(1914年竣工)が開業すると、皇居外苑に新たな正面が加わる。三菱社は「行幸通り」の門に見立てた2棟のオフィスビルを計画。その南側の敷地に竣工した「丸ノ内ビルヂング」 (1923年竣工)では、従来の2街区をまとめることで失われる道を、ショッピングアーケードとして1階に貫通させた。これは「建物がないところ」ではないが、誰でもアクセセスできるように考えられているので、第3世代の街路と見てよいだろう。

高度経済成長期には「丸ノ内総合改造計画」(1959年)が策定され、私道の廃止による街区の大型化、「丸の内仲通り」の拡幅(13mから21mに)が行われ、通り沿いの明治から昭和初期の建物は、市街地建築物法(1929年)に定められた軒高制限100尺(約31m)、8階建てに改築された。ファサードの統一は工業化された窓の水平反復によって維持され、1階のアーケードも街区を超えてネットワークされた。壁面線を揃えたモダニズムの街並みに、革靴のビジネスマンが闊歩する足音が反響する東京で最もダンディーな第4世代の街路である。

しかしこの時期の業務中心の想定は、都心集中から副都心への分散を促すその後の東京のまちづくりの方針転換の中で割を食うことになる。不運にも丸の内仲通りの三菱重工本社が爆弾テロの標的にされ(1974年)、東京都庁が新宿に移転し(1991年)、跡地に「東京フォーラム」が完成するも、「黄昏の街、丸の内」と揶揄された新聞記事が掲載されるようになる。だがその間、丸の内の再構築が議論されていなかったわけではない。「丸の内再開発計画」が発表され、約80の地権者からなる「大丸有地区再開発計画推進協議会」(1986年)が発足。この協議会に東京都、千代田区、JR東日本を加えた官民協力の懇談会(1996年)が設けられ、まちづくりのガイドライン(2000年)により、丸の内地区の「街並み形成型」、「賑わい形成型」の整備方針が共有された。同じ頃、東京都も国際競争力のある都市づくりを目指し、「東京の新しい都市づくりビジョン」(2001年)では、積極的な土地利用による、既成市街地の再編を謳った。これが都市計画法改正(2002年)と連動し、大丸有エリアの約71.2haは地区計画と合わせて商業地域の容積率1,300%に指定された。阪神・淡路大震災(1995年)後の耐震性の点検で建て替えが始まっていた「丸ノ内ビルヂング」は、隣接する「三菱商事ビルヂング」と合わせて「特定街区制度」を活用し、容積移転による高層化、用途移転による非業務用途を集積を計っている。道からセットバックしたタワーと、壁面線を揃えた軒高100尺の基壇への分節により「街並み形成型」を実現している。基壇の角に設けられたアトリウム「丸キューブ」は、丸の内仲通りから基壇上のテラスへ人を誘う屋内公開空地であり、「三菱一号館」再建(2009年)、文化交流機能の導入、地域インフラの整備と共に、社会貢献として認められた。「丸の内仲通り」では、歩車道共通の石畳や、街具設置により歩きやすさが向上した。また官民協調の大丸有エリアマネジメント協会「リガーレ」( 2002年)が、オープンカフェ、ヘブンアーティスト、カウパレード、打ち水プロジェクト、盆踊り、歩行者天国、綱引き大会、キッチンカー、企業主催イベント等、多様なふるまいの窓口となって「アーバン・リビングルーム」のコンセプトの実践にあたっている。働くだけの街から、休日も家族連れや観光客が集う「賑わい形成型」への変貌が、第5世代の街路である。

「丸ノ内ビルディング」の丸キューブ

「丸ノ内ビルディング」の丸キューブ

打ち水イベントの様子

利用者のニーズと運用ルールの「ずれ」を積極的に活かす次世代の公共空間

このように、丸の内における街路のデザインは、周辺施設との関係や、壁面線、軒線、建築のファサードを揃える街並みのデザインに端を発し、現在では路面テナントのキュレーションや、道路の一時利用の企画運営等、コンテンツを差配するエリアマネジメントにまで拡張されている。そのメンバーシップの想定も、ビジネスで完結したものから、賑わいを生む多様性を含んだものへと変容されている。理念や、振る舞いの書き換えが、歴史として重ねられてきた場所だからこそ、現在の「丸の内仲通り」のような独特の雰囲気を醸し出すことができているのである。だが、穏やかな装いの背後には、ステークホルダー間のシビアな調整が繰り広げられている。例えば丸の内に求められる能動的な活用と、全国一律に定められた道路管理のルールや、従来型の公共空間の運用ルールとの間の「ずれ」は、障壁として現れるが、この「ずれ」に官民が協力して介入し、制度の見直しを図ってきた。こうした「ずれ」の発見と、そこへの立場を超えた介入を、弁護士の水野祐は「リーガル・デザイン」と呼んでいるが、丸の内の公共空間は、さらなる「ずれ」の発見と介入によって、日本社会が今求める、問題解決型のモデルとなるだろう。

その一方で、丸の内には居心地の悪さも感じている。エリアマネジメントが来街者へのサービスを高めれば高めるほど、来街者は客として扱われ、マネジメント側のビジョン実現のために動員される立場に甘んじなければならない。安心で安全な賑わいの創出には異論を挟む余地もないが、公共空間のアクターとなるためのライセンスが高度化しすぎると、誰もが平等で自由に意見を述べられる雰囲気ではなくなっていく。実際今の丸の内には、ヒマ人はいないし、ヒマ人が気兼ねなくいられる庇やロッジアのような場所はない。そして今、新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言、外出自粛要請により「賑わいの創出」は危機に直面している。この撹乱からどんな想定が再構築され、次の第6世代が生まれるのか? 注目していきたい。