130th ANNIVERSARY

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丸の内をつくった建築家たち むかし・いま 藤森 照信 著 1890-2020

本コンテンツは、1992年4月に新建築社より刊行された「別冊新建築 日本現代建築家シリーズ⑮ 三菱地所」への、藤森照信氏(当時、東京大学助教授。現、東京大学名誉教授、東京都江戸東京博物館館長)の寄稿文を、藤森氏の快諾を得て、新建築社の協力のもと再掲したものです。

当時、徐々に都市機能が集積しつつあった「横浜みなとみらい21地区」では、三菱地所設計の前身である三菱地所の設計監理部門が設計を手掛けていた「横浜ランドマークタワー」が、日本一の高さを目指して建設されていました。

藤森氏は、「日本で一番歴史の長い民間の設計組織」である当社が長年保管してきた古図面に光をあて、デベロッパーとしてではなく、数々のアーキテクトが活躍してきた設計組織としての三菱地所の顔を明らかにしました。その約十年後、当社は設計監理業を専門とする三菱地所設計として分社独立(2001年)します。日本の近現代建築黎明期からの技術的継承を示す文献です。

藤森 照信

(ふじもりてるのぶ)

1946年
1971年
1978年
1998〜2010年
2010〜14年
2010年〜

長野県生まれ
東北大学工学部建築学科卒業
東京大学大学院修了
同大学教授
工学院大学教授
東京大学名誉教授

現在、東京都江戸東京博物館館長

はじめに

江戸時代の大工棟梁に根を持つ建設会社をのぞけば、三菱地所の設監部門は日本で一番歴史の長い民間の建築設計組織である。日建設計は明治33年に住友の臨時建築部として設立され、横河工務所は明治36年に始まり、と由緒の深そうなあたりを探しても明治23年にスタートした三菱地所にかなうところはない。
なのに、現在の日本の建築界では地所のことを設計組織としてとらえる人はあまり多くはない。たいていの人が、収益は日本一の不動産会社だと見なし、そのように扱っている。現在の地所の利益に占める設監部門の割合は6、7パーセントだというから、経済的には世間は正しい判断をしているといえるが、しかし、巨大な地所の事業全体を一時忘れて設監部門だけに目を注ぐと、昨年の総売上げ約120億円、スタッフ594人と、とても隅にはおけない規模を誇っている。設計組織ランキングでは、年次調査1991年版をみると、1位日建設計、2位日本設計……と続いて第4位につけている。(『日経アーキテクチュア』1991年8月19日号)
現代の評価はしばらくおき、こと戦前までについていうなら、当時の建築界の人々は誰もが地所を設計組織と考えていた。それも日本の建築界をリードするところと考えていた。地所に籍をおいて活躍したアーキテクトの名を、コンドル、曽禰達蔵、真水英夫、保岡勝也、桜井小太郎、本野精吾、内田祥三、福田重義、藤村朗、山下寿郎、川元良一と並べ、彼らの手がけた作品を、三菱1号館、2号館、21号館、三菱大阪支店、神戸支店そして丸ビルと数え上げてみれば、少なくとも日本のオフィスビルのデザインの歩みは地所の建築家とともにあったことが納得されよう。
こうした感じがうすれ、何となくディベロッパーの顔ばかりが目立つようになるのは、戦後になってからだった。
僕が建築に関心を持ち出した頃は、地所=ディベロッパー、という図式がしっかり出来上がっていたから、僕がこととする近代建築の歴史研究においても現代建築のデザインの関心においても地所は僕の個人的関心からはズレてしまっていた。
だからこのたび、『別冊新建築』の編集者から、設計組織としての地所の仕事について百年の歴史を振り返ってほしい、といわれたとき、面くらわざるをえなかった。
これまで、丸の内のビル街の歩みの解明には相当に力を入れてきたし、コンドルや曽禰達蔵については資料を漁り、歴史の専門家もほとんど知らない第二代技師長の保岡勝也のことだってひと通りは追っかけてきた。もしタイムマシンで昔にもどり、三菱11号館(=仲11号館・5~6号)の製図室に入って行ったとしたら、誰が保岡勝也かわかるのは僕と研究仲間の堀勇良だけだろう。細面(おもて)でやや伏目がちのジェントルマンがいたら、まずそれが保岡さんだ。もし部下をきつく叱っていたら絶対に間違いない。

このように人についても作品についてもあれこれ調べてきたのに、“地所”という二文字を軸にして事態をとらえたことはなかった。これは歴史家としてはひとつのうかつといっていい。
僕だけじゃなく、ほかの研究者も設計組織としての地所の人と作品の流れを本格的に追った人はこれまでいない。
住友財閥の営繕組織から始まる日建設計も横河民輔個人に根差す横河工務所もその歩みが、少なくとも戦前の分まではしつかり研究されているのに、地所だけはなぜか歴史研究の対象にはならずにきてしまった。理由のひとつはすでに述べたように戦後に日本の近代建築の研究が始まったとき、地所は設計組織と思われていなかったこと。もうひとつは、コンドル、曽禰達蔵、内田祥三といった面々が偉大すぎて、地所との関係を超えて大きな個人として語られ続けてきたこと。このふたつの理由はわれわれ研究者の責任に入るが、もうひとつ地所側に起因する理由がある。それは、資料が未整理だったこと、百年もたつというのにこれまで社史が書かれていない。コンドルのものを除いてもちろん図面もリストアップされていない。資料が手元になければ思考を発動できないのが歴史家である。
というといかにも地所をセメているようだが、こうした事情は実は日本の設計組織はどこも五十歩百歩で、とりわけ歴史の長いところほどそうで、資料はもう捨てられてしまったかそうでなくても保管室に山積みされたままになっているのが一般的だ。地所がこれまで大火で焼かれたり組織的に捨てたりしなかったのは実は上出来で、整理の有無などそれに比べたら枝葉末節。
編集部から話があったとき、内心、「未整理と聞く生の資料を見せてもらえたらやる気もでるのだが……」と思った。そこでこの希望を地所側に述べると、「ご期待にそえるかもしれません」との返事。結果からいうと、大いにそえてもらえた。
地所は三菱1号館をはじめ丸ビル(丸ノ内ビルヂング)など手がけた建物のほとんどの原図面を保管し、図面以外もそう多くはないが、古写真や文書類を今日まで伝え、それらはこれまで末整理であったが、来年度の社史刊行に向けてほぼ整理が終わっている。その結果、これまで未見の生資料が続々と現れ、僕は歴史の専門家として初めて目にする光栄に浴した。
たとえば、コンドルの図面。地所所蔵のコンドルの図面については河東義之博士の名著『ジョサイア・コンドル建築図面集』ですでに紹介されているけれども、それに落ちた加藤高明邸と諸戸清六邸の原図一式は新発見だった。さらに、これまでほとんど実体が不明だったコンドルや曽禰達蔵設計の丸の内のオフィスビルの平面や立面がわかった。
それらの新発見資料に尻をドンと突かれてこぼれ出たのが以下の文である。