130th ANNIVERSARY

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丸の内をつくった建築家たち むかし・いま

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丸ビルの建設

本章で紹介される「丸の内ビルヂング」(通称「丸ビル」、1923年竣工)。当時、東洋最大の容積を誇ったこのビルは、ニューヨークの設計事務所とのコラボレーションで、建設の機械化や最新の工事管理システムにより「18年かかると言われていたものを2年半で」実現。日本の建設産業の発展における、エポックメイキングな建物となりました。合理的な平面形の「丸ビル」は、その後、約80年近くにわたり使用され続け、ビル内部のアーケードは、2002年に建て替えられて超高層化した「丸の内ビルディング」の基壇部にも継承され、今は就業者だけでなく、街を訪れる人びとが行き交う場として親しまれています。

丸ノ内ビルヂング(通称丸ビル)大正12年桜井小太郎

桜井時代の最後をやや波乱含みながら飾ったのが、かの丸ビルである。
丸ビルは有名な割にわからないことの多い建物で、計画がどのようにスタートしたかについてこれまでまったく知られていなかったが、三菱から成蹊大学図書館に移された資料の中に原案と呼べるものが存在することが社史編纂室の手で明らかにされ、ようやく端緒をつかむことができた。
どうも、丸ビルは当初、今の向かいの位置、つまり新丸ビルのところに計画されたらしい。らしいなどと曖昧ないい方をしたが、大正7年2月1日の日付の「東京停車場前貸事務所設計案」を見ると、丸ビルと同規模の貸ビルがその位置に置かれている。では今の丸ビルのところはどうかというと、ここには、「東京停車場前三菱本社計画案」があった。こっちの案のほうが日付けが2カ月ほど早く、大正6年12月25日に作製されているが、貸ビル計画と本社計画は同時になされた一対のプロジェクトと考えていいだろう。
大正6年末から7年初頭にかけ、三菱は東京駅前への二大ビルの計画を固めていた。
この時期は仮本社の完成を間近に控えた時期だが、なぜ仮本社が仕上がらぬうちに本社の計画に着手したかというと、ビル需要の急増が背景にある。豪華で大規模過ぎるコンペの本社計画案をやめて仮本社をつくり始めてみると、出来上がる前に社内での床不足が明らかとなり、またビル需要も急に伸び、そこで東京駅前の正面位置に大型の本社と貸ビルを計画した。

「床不足が明らか」とか「ビル需要も急に伸び」と説明したが、こうした説明を裏付けることは一般的にいってきわめて難しい。1号館このかたの丸の内のビル建設の流れを理解するには時代ごとのビル需要の把握が不可欠にもかかわらずこれまで一切この方面に触れてこなかったのは、数値的な裏付けが不可能だったからにほかならないのだが、幸い、こと三菱本社については「東京停車場前三菱本社計画案」の中に床面積の統計が1年単位でグラフ化されており、このグラフにより、大正3年を境に床面積が急激に増加している実態がわかる。この急増は三菱1社のことだが、同じ傾向がビル需要全体に見られたと考えていいだろう。
こうした冷静な需給関係の分析だけでなく、街づくりの勢いという要素も当事者たちには大きく働いていたにちがいない。大正3年に東京駅が完成しその前に行幸道路が引かれ帝都東京の表玄関としての骨格が決まり、その行幸道路の皇居側の角、つまり固めの位置の北角に東京海上ビルが完成間近の姿を見せていたのが大正6年の末なのである。丸の内における街づくりの勢いは、それまで原野同然だった東京駅前に向かって走っていた。丸の内の主を自認する三菱がこうした勢いを見逃すはずもなく、自らの二大ビルでその勢いにかたちを与え完成させようとしたのである。
この一大計画はしかしそのままでは実行に至らず、三菱本社は中止となり、仮本社への増築で床需要を満たすことになる。一方、貸ビルのほうは、本社予定地のほうに位置を移して計画がさらに詰められていく。

三菱本社が使用中の丸の内8棟のビル総延床坪表 大正6年12月25日(東京停車場前三菱本社計画 成蹊大学所蔵)

東京停車場前貸事務所南北断面図(丸ビルの原案)大正7年2月1日

実施案が固まったのは大正9年3月の桜井の渡米前のはずだから、大正9年早々と考えられるが、1年間の検討の成果は大きい。 第1案と実施案を比べてみよう。
1階の平面図を観察すれば、ビルのアウトラインは似ているにもかかわらず、根本的な差があることがわかる。 第1案は、大きな中庭をとり、その中央に4階建ての独立棟を建て弁当屋と食堂と喫煙室と談話室と図書室を収めている。そしてこの独立棟と外の間にショッピングアーケードを架橋して両者をつなぐ。いわば、オフィスビルの中に外のストリートを引き込み、その先に憩いと知性の空間を突起させる、というなかなか面白い提案がなされているのだが、いかんせん中庭と外をつなぐ車道とアーケードによって1階レベルがズタズタに分断され、ビルにとって一番大切な1階の一体性が失われてしまった。大学の先生が製図の時間に学生によくいうように、“プランが整理されていない”のである。
これに対し実施案は、1階では中庭をやめ、すべて室内としてその中央に十文字にショッピングアーケードを通し、平面計画に一体性を持たせた。また、第1案では各所にちらばっていたホール、階段、エレベーター、便所を集中した。
このように第1案に対し平面の整理という改善が加えられるのだが、第1案の中で打ち出された美点はより純化されるかたちで実施案に引き継がれている。
そのひとつが、アーケードで、第1案では小規模な特例的扱いに過ぎなかったが、実施案では1階の全面に及び、オフィスビルの中にストリート性を取り込むことに成功する。
もうひとつは玄関ホールの構成である。

それまで長い間、玄関ホールの主役は階段であり、階段を記念碑的に演出することが、宮殿や劇場だけでなくオフィスビルでも広く行われていた。ところが、ビルの階数が4階以上になり上下の移動がエレベーターを主軸として行われるようになると、階段は補助的な働きしかしなくなる。つまり、機能上、ホールの主役は階段からエレベーターヘと変わるのだが、しかし、習慣は根強く、三菱仮本社や東京海上ビルあるいは郵船ビルといったエレベーター本位の合理的ビルでも、用もないのにホールの正面に立派な階段を据えることをやめていない。エレベーターを発達させ、エレベーターを軸とするビルづくりを完成させたのはアメリカだが、大正期の日本のビルづくりにアメリカの合理性の影響が強く現れてからも、ことホールの構成については昔式をなかなか捨てきれなかったのである。
こうした中で、エレベーター本位のホールづくりを最初に打ち出したのが丸ビル第1案にほかならない。この方向は実施案でも堅持され、より強化され、通り抜けのホールの左右に都合10台のエレベーターが集中的に並ぶ構成が実現している。こうしたエレベーター中心のホールの構成はインテリアデザインにも決定的に影響を与え、それまで階段という吹抜け施設のおかげでホールの大空間が可能となり、派手な演出も意味があったのだが、エレベーターにはそういう大空間が逆に邪魔になり(吹抜けがあると2階で降りられなくなる)、ホールはごくあっさりした空間としてデザインされるようになる。 以上が丸ビルの第1案と実施案の平面計画についての比較である。

東京停車場前貸事務所1階平面図(丸ビルの原案)大正7年2月1日

丸ノ内ビル1階平面図 1920.11.5(大正9年)日付を見ると改訂1920.12.2、追訂正1921.12.9、再改定1922.3.16とある。

丸ノ内ビル東(正面)立面図(丸ビルの図面は英文表記で単位はフィート)

次いで立面、つまり外観のデザインについて検討したいのだが、第1案には平面図と断面図しかなく、立面がわからない。ただ、断面図には中庭の独立棟のファサードが描かれており、それによると地所がそれまで好んで試みてきた仲12号館風のゼセッション様式であっさりと飾る予定であったらしい。
実施案では、ゼセッションはやめになり、代りに列柱なしのネオ・ルネッサンス系をベースにして、表面をしごくあっさりと仕上げたスタイルになっている。
こうした設計は大正9年の3月までには大略固まり、11月に根伐りに着手し、翌10年3月には細部まで含めた最終図面が描き上げられ、さらに工事が進んで8割方出来上がったところで大正11年4月、地震により被害を受け、一部設計変更して耐震性を強化してさらに工事を続け、大正12年2月、完成した。
と経過だけを書いてしまえばこれまでの丸の内のビル同様に順調に完成したように受けとられるが、そうはいかない事情があった。
1号館以来、地所は、ビル建設のすべての過程を自分のところで完璧にコントロールすることを旨として仕事を進めてきた。自分の土地に自分のビルを計画し、設計は顧問か自社の建築家が手がけ、工事も請負いに出さずに直営方式によって材料の納入から組立てまで直接管理してきた。
ところが、丸ビルはそうした長い伝統とはちがう方式が取られ、それが大きな成果をあげる一方、難しい問題も引き起こすことになる。丸ビルの建設に当たり、三菱はニューヨークのフラー社と組んだ。なぜそれまで何の問題もなかった方式を捨てたかというと、もちろんそうせざるを得ない理由があった。
設計についてなら桜井以下の地所のデザイナーはアメリカの合理的な平面計画はもちろん、欧米の最新のデザインにも詳しかったし、一時は弱かった構造技術についても山下寿郎の入社によって当時のトップレベルに追いついていた。問題はひとえに施工にあった。工事がともかく時間を食うのである。それまで三菱が手がけた最大作といえば21号館だが、それでも丸ビルの25の3分に過ぎない。
先行する実例としては東京駅前に最初に進出した東京海上ビルがあって工期が延びに延びて4年半もかかってしまい、大型ビルのネックとして関係者の間では認識されていた。もし同じスピードで丸ビルの面積を消化するにはなんと18年もかかる勘定になる。これでは、投資期間が長過ぎて貸ビル経営は成り立たない。

方法はただひとつ、構造は工期の速い鉄骨構造とし、施工は機械化方式を取る。鉄骨ビルも機械化もアメリカが世界の中で群を抜いて進んでいるから、アメリカの工事に学ぶしか手はない。 丸ノ内ビル東立面及び断面詳細図 1921.3.14(大正10年)

工事中の丸ビル 1921.6.1

工事中の丸ビル 1921.7.1

そして三菱はニューヨークのフラー社と組むことになるのだが、組むまでの経緯はけっこう偶然が働いた。
丸ビルの計画が始まる2年前の大正6年のこと、地所部長の赤星陸治と技師の山下寿郎のふたりは、アメリカヘの視察旅行に出掛けた。丸ビルを意識したものではもちろんなく、それまでもたびたび行われてきたような海外事情の視察で、第1次大戦下のヨーロッパに行くのは危険だからアメリカだけにしたに過ぎない。ふたりはヨーロッパ分も含めて4カ月アメリカ視察に費やすことになるが、この長い滞在が幸いし、山下は当時ニューヨークで働いていた松井保雄と親しくなり、その引回しでウイリアム・スターレットと知り合う。彼こそフラー社の副社長で、その兄のポール・スターレットは社長であった。
スターレット兄弟と当時のフラー社のことは近く刊行予定の社史の中でフラー社の資料に基づき社史編纂者の筆で詳しく述べられるはずだから省略し、松井保雄のことを少し述べておきたい。
松井はその頃ニューヨークで活躍中の日本人建築家で、1929年には当時世界一の高さのマンハッタン銀行ビルをH.C.セブランス事務所と組んで完成させ、名を上げている。このビルを追い抜いたのがかのエンパイアーステイツビル(原文ママ)だが、それも実は松井の設計で、当時の日米関係を考え米人の名で世に出した、と松井は戦後にニューヨークを訪れた日本の建設業視察団に語っている。山下が訪れたときはマンハッタン銀行ビルの前ではあるが、松井はニューヨークに根を下ろしていたから、フラー社を知っていて当然であった。
こうした松井を通して山下はフラー社の副社長のW.スターレットと知り合う。そして、
「いろいろ話しているうちに、フラーが日本でいい仕事があったら乗り込みたいという気があることを聞いたのです。そのことを、日本に戻ってから会社で報告したのが、そもそものはじまりなんです」
(『日刊建設通信』昭和50年3月26日刊)

山下の帰国報告によって地所ヘフラー社の存在が知られた後、翌大正7年5月、W.スターレットは、地所などに事前連絡をして、松井保雄とともに来日し、建設事情の視察をする。 もちろん、日本進出の可能性を探るためであった。
三菱の側は、先年、赤星と山下が渡米した折は丸ビルと新本社の計画はなかったが、スターレットが来日した今度は、両計画がすでに動いていたのだから三菱とフラー社の間で具体的な話が交されてもいいはずだが、今のところその形跡はない。地所はフラー社副社長の来日に具体的な関心を示さなかったもようである。おそらく、完成間近な仮本社を案内したり、新本社と丸ビルの計画があるくらいのことを教えたにとどまったのだろう。
具体的に関心を払ったのは三菱ではなく、三菱の元母体ともいうべき日本郵船の社長、近藤廉平である。日本郵船は東京海上の向かいに郵船ビルの計画を進め、スターレットの来日したとき、曽禰中條建築設計事務所の手で基本設計図をまとめていた。設計図の引かれたのが5月で、スターレットの来日も5月だが、あるいは偶然の一致ではないのかもしれない。なぜ近藤がフラー社に具体的関心を払ったかというと、計画中の郵船ビルの工期の問題であったことはまちがいない。郵船ビル予定地の向かいに工事中の東京海上ビルは、大正3年3月に曽禰中條建築事務所の設計で起工したものの、すべてを人力に頼る日本の施工方式ではとても大型ビルをこなせるものではなく、工期が延びに延びてしまい、結局、4年と6カ月もかかる羽目になるが、東京海上より一回りも二回りも大型の郵船ビルはさらに長くかかるのは必定であった。工期の長さは工費を上げるし、投資効果から見ても不都合きわまりない。
ところがアメリカの機械化された施工によれば何分の一にも短縮されるというのだから、近藤廉平としてはフラー社副社長の来日に具体的関心を払うのは必然である。おそらく地所を通じてW.スターレットと接触し、郵船ビルの図面を前に話し合いが持たれたのはまちがいない。

工事中の丸ビル 1921.10.1

工事中の丸ビル 1921.11.15

翌年早々、近藤廉平はニューヨークに出向いてフラー社社長のP.スターレットと具体的な話に入るのであるから、前年5月のW.スターレット来日の折に郵船側は新ビル建設をフラー社に托す可能性を伝えていたと考えていい。
このように三菱ではなく郵船がフラー社との具体的交渉に入ったのだが、弟のW.スターレット副社長と逆に兄のP.スターレット社長は未知の国への進出にきわめて慎重で、ふたつの条件を付けた。ひとつは、郵船ビルのほかにも工事を任せること、もうひとつは米日の合弁会社をつくり、そこが工事を行うこと。
近藤はこの条件を日本に持ち帰り、三菱と話を詰め、結局、郵船のほかに丸ビルと日石ビルをフラー社に任せることと、東京に東洋フラー社を設立することのふたつが決められる。東洋フラー社への出資はフラー社と日本側の岩崎小彌太、近藤廉平、渋沢正雄によりなされ、大正9年3月に設立された。設立に伴い、代表にフラー社側のH.A.ハリスが就き、さらにアメリカから後に横浜で活躍するモルガンはじめ30名近い技術者や事務職が来日する。
このようにして丸ビルの工事はフラー社により行われることになり、フラー社は工期30カ月での完成を約束した。もし東京海上ビルと同じペースで工事が進めば、丸ビルの床面積をこなすには18年かかる勘定になるから、30カ月(2年半)というのは驚異の短縮ぶりにちがいない。
かくして大正9年11月、いよいよ工事が始まる。いかに機械化されていたかは、すでに『丸ビルの世界』(かのう書房刊、昭和60年)に一度詳しく書いたことがあるから省くが、丸ビルの工事の中で初めて資材転送に大型トラックやトレーラーが使われ、杭打ち用のスチームハンマーが投入され、クレーン(ガイデリック)が働き、鉄骨の接合にはリベットガンが駆使され、また仮設工事においても吊り足場が利用された。その機械化ぶりは同時期に工事の進められた帝国ホテルと現場の光景を写真で比べてみればよくわかる。帝国ホテルでは杭打ち他にすべて人力が使われている。
こうしたハードの技術だけでなく、工事管理技術においても徹底した合理性が図られ、精度の高い工程表がつくられ、日本の建設業社の8時間労働制が採用され、個々の労働者の働きぶりも厳密にチェックされた。 徹底したシステム化と機械化が図られたのである。自動車工場における大量生産システムが建設現場に持ち込まれたわけだが、こうした工法がアメリカで発達したのは、シカゴに始まりニューヨークでピークに至る超高層ビルの建設のためにほかならない。そして、こうしたアメリカの超高層オフィスビル建設の指導的地位にあったのがフラー社であった。いわば、ニューヨークのつくり方がそのまま丸の内に降臨したのである。

桜井以下、地所の技術者の面々にとって目のさめるような鮮やかな毎日が過ぎ、鉄骨が立ち上がり、その中空煉瓦を下地として、足元は御影石、腰壁は人造石(キャスト・ストーン)、2階以上はオレンジがかった黄色のタイル、そして最上階はスタッコで仕上げられた。
こうした外壁の仕上げ工事が終了し、窓サッシュの工事に入ったとき、つまり最後の仕上げ工程に入ったちょうどそのとき、大正11年4月26日、東京を中規模の地震が襲った。関東大地震の予告篇ともいうべき東京地震である。
揺れが納まってみると、丸ビルの外壁のうち2、3、4階部分に亀裂が走り、ところどころタイルがはげ落ちて下地の中空煉瓦がむき出しになり、また内部の壁にもいたるところ亀裂が生じていた。鉄骨の柱と、鉄筋コンクリートで巻いた鉄骨の梁と、鉄筋コンクリートの床に破損はないから構造体に問題はなかったものの、構造体を包むカーテンウォールに被害が出た。 もしほかのビルも同じだったら三菱地所の技術陣も不安にかられなかっただろうが、同時に進行中の郵船ビルにも日石ビルにもほとんど被害らしいものはなく、もちろん1号館をはじめとする明治の赤煉瓦建築にもヒビひとつ入らず、最新鋭の丸ビルだけが部分とはいえ壊れた。
明らかに構造上に欠陥をはらんでいることに気付いた地所は、それまで工事に絶対的権限を持っていたフラー社の技術陣からリーダーシップを奪い、山下寿郎の指揮で急拠、補強工事を施す。耐震性を強化するため、鉄骨のブレース(筋かい)を各所に入れ、内側の中空壁煉瓦はすべて撤去してモルタル塗りのメタルラスに替えた。もちろん、外壁のタイルの剥落カ所は貼り替えた。
こうしたアクシデントが地所の技術陣に深い不安を残したものの、補強工事は短期間で済み、翌大正12年2月20日、予定通り丸ビルは完成した。
丸ビルの完成を世間は大いに祝福してくれた。
まず東洋一の大きさが市民の自慢のタネとなった。大量のものを形容するのに丸ビルで何杯といういい方が昭和43年に霞が関ビルが誕生するまで長らく使われるが、その位に強い印象を市民に与えたのだった。 巨大なだけではない。いくらなんでもただ図体が大きいだけのものに人は親しみを持ちはしない。1階に設けられた通り抜けのショッピングアーケードの影響が大きい。それまで丸の内のビルは、いやもっと広く日本のビルは、業務専用で、一般の人が寄り付く場所ではなかったが、丸ビルの1階に“街”が形成され、誰でも入れるようになった。
現在のオフィスビル計画のテーマのひとつである開かれたオフィスビルは、丸ビルから始まるのである。

工事中の丸ビル 1922.1.15

工事中の丸ビル 1922.11.1

こうした社会的な祝福のほか、建築学的にも丸ビルの成果は大きかった。列挙してみよう。

① システム化、機械化した施工。すでに述べたように、もしかしたら18年かかるかもしれないものを2年半で仕上げた。
② 経済合理的な平面。レンタブル比を調べると、明治末の赤煉瓦オフィス(12号館)が47.5パーセント、大正初の21号館が73.0バーセントに対し丸ビルは79.4パーセントと極限まで高まっている。
③ 装飾性を減じたデザイン。スタイルはネオ・ルネッサンス様式を基本としているが、外観においては彫りを浅くして平坦化し、内部においては玄関ホールを階段を軸として飾り立てることをやめ、エレベーターホール中心のただの廊下の一部とした。

以上の3点は、いずれもアメリカのオフィスビルに直接、間接学んだものであり、大正期に入ってから始まった日本のオフィスビルのアメリカ化はここに頂点に至った。
桜井小太郎以下、地所の技術陣もフラー社の面々も、もちろん岩崎小彌太以下の三菱の指導層も、丸ビルが社会からも専門家からも祝福されて船出したことに大きな満足を覚えた。しかし、その余韻も消えぬ半年後の9月1日、関東大地震が東京を襲った。前年の東京地震とは比べものにならない揺れであった。
このときの東京の被害についてはよく知られているが、しかし意外に知られていない事実がある。一流の建築はビクともしなかったという事実である。石と煉瓦の日銀本店は火が入って内部は焼けたものの地震そのものに対してはごく一部の石がはがれた程度。赤煉瓦の法務省や最高裁は被害なし。丸の内にしぼっても、赤煉瓦の東京駅や鉄筋コンクリートの東京海上にはヒビひとつ入らず、三菱の仮本社も銀行も無事。1号館以下の明治の赤煉瓦はむろん、例の鉄骨造と鉄筋コンクリート造の混ぜこぜの21号館もオッケー。
こうした“古い”つくりの一流ビルがほとんど大丈夫だったのに、最新鋭をうたわれた出来立ての丸ビルと郵船ビルに大きな被害が発生したのである。丸ビルは、柱と梁と床は大丈夫だったものの、2、3、4階の外壁全面にX印の亀裂が走り、もちろんタイルは剥落し、下地の中空煉瓦も一部で崩れ落ちた。5階以上の外壁にも亀裂が見られた。内部は東京地震の折に補強した鉄骨のブレースは千切れるか押し曲がるかし、モルタル塗りのラス張り壁はベコベコになった。郵船ビルも被害のパターンは同じで、骨組はよかったもののカーテンウォールのテラコッタがガタガタになり一部は落下した。東京地震の被害のパターンがそのまま拡大して現れたのである。骨組が大丈夫でカーテンウォールがガタガタというパターンから原因は明らかで、骨組が地震の揺れに対する抵抗力を欠いていた。正確にいうなら、自分が崩壊しないだけの抵抗力は持っていたものの、揺れによる骨組の変化が大き過ぎてその変化についていけないカーテンウォールを壊してしまった。専門的にいうと、剛性不足。
もっと柱と梁を太くするか、耐震壁を設けるかしないといけなかった。当時、耐震壁は東京海上ビルで初めて実験的に設けられたばかりだったからそれは望むべくもないとして、柱と梁を太くして剛性を高めておく必要はあった。修理後の今でも丸ビルに入ると、柱と梁が細いのにアレッと思うぐらいだから、竣工時はもっとだった。
実は、被害はもっと軽くて済んだ可能性もあったのである。そもそも丸ビルの構造設計を地所がせずにフラー社に任したところから問題は始まっている。それまで地所は自社が手がけるビルの構造設計は自社でやっていたのだが、なぜか丸ビルについてはやらなかった。フラー社の施工で同時に進行した郵船ビルと日石ビルは設計者の曽禰中條建築事務所が構造設計もやっているのだから、丸ビルが例外だったことになる。
理由ははっきりしないが、僕の推測では、当時の地所は鉄骨構造に長けていなかったからではないか。それまでの地所の仕事の中に純粋な鉄骨構造の実績はなく、無理してやるよりは鉄骨構造の先進地のニューヨークで鍛えたフラー社に任せたほうがいい、という判断が下っても不思議はない。
そして結局、フラー社は日本の地震を考えず、ニューヨークの風の水平力を考えて構造計算を済ませてしまったのだが、しかし、それを訂正するチャンスも地所の側に一度だけあった。 そのチャンスの件を山下寿郎が次のように回想している。
大正12年9月1日の関東大震災による損壊 郵船ビル(手前)と丸ビル

「丸ビルがわが国事務所建築として、従来、その比を見ないほどの巨大な各階平面を持つものであるところから、地震動による建物各部位の振動が一様ではあり得ないことを憂慮して、当時の京都大学日比忠彦先生の地震動による建物各部位の応力計算法を適用して演算を試みた。採用した震度は0.15で、これによって生じた応力が鉄骨構造の破壊強度に達するもやむを得ないという仮定のもとに、計算して得た数値に基づく構造図を、詳細図に作成、さらに試算の要領書を添えてフラーのニューヨーク本社に交渉におもむく桜井技師長に、アメリカ側に提示されるよう手配したが、この説明書と詳細図とは、ついにアメリカ側に示されることなく、フラー社側のstructural engineering consultantsは、地震力による応力に換えて、特別に風力による応力を基礎として計算して得た数値に基づいた鉄骨架構材料と、その製作とをアメリカ内にて発注した。したがって後に横浜で水揚げされて現場に持ち込まれた鉄骨工作物は、地所部の現場監理者に非常な危惧の念をもって迎えられた。」
(『建築学発達史』)

この件につき別のところで山下は、
「アメリカから届いたフラーの構造図面を見て、私は非常な不安を感じたものです。何しろ日本は地震の国でしょう、そこへ建てるビルの構造が、ニューヨークの岩盤の上に建てる経験を持つアメリカ式であっていいのかという疑問がまずあります。これは構造担任の私としては当然持つ疑問です。
フラーの構造はあぶないぞと気になりだしたんです。簡単にいうと、当時ニューヨークの建築法規では十階以下の建物の風に依る計算は不必要なのですが、丸ビルは十階以下だけれども、特に地震のことを考えて風圧の計算だけで問に合うと思ったのでしょう。地震力は建物の目方からくる問題で、建物の動き方が全然ちがうんです。
当時、私の下に佐藤好君というのがいて、彼は蔵前を出て、京都大学の日比忠彦先生の耐震構造の講義を勉強した人ですが、丸ビルの計画が始まると、私はこの佐藤君と一緒に、丸ビルの耐震構造の計算をやって見ることにした。何分三万二千平米を超える建物なのだから、耐震的な研究をする必要があると考えた。私が東大に居た時代にはいまだ佐野先生の耐震構造の講義はなかった。
さて、佐藤君と相談したのには、震度0.15の地震が来たら建物が参っても仕方があるまい。しかし、ふつうのリベットじゃ、地震が来ると、すぐに頭がふっ飛んじまうからだめだ。ボールトでやろう。それもナットを一つじゃだめだから二つにして、外側のナットにはタガネで傷を付けようという案を立てて、その図面を私が縮尺十分の一で引いた…建物は三一メートルあるんですから、三メートル余の図面を自分で描いたのです。
技師長の桜井小太郎さんがアメリカヘ行って、フラーと打合わせをすることになっていたので、私としては、なんとかしてこの耐震構造の必要性を先方に伝えなければならんと思い、私が英文で耐震構造の件を書き、それを自分でタイプに打ってさき程の図面と一緒に、桜井さんに随行した石原信之君に持っていって貰ったんです。ところが、桜井さんはイギリスで勉強されただけに、英語は達者な方です。それだけに下手な英文を先方には見せられなかったということを石原君が帰って来てから知らされて驚いた。これは困ったことだなあと思った。」
(『日刊建設通信』昭和50年3月26日号)

山下の構造上の新提案についての資料は残されていないが、この回想によると、骨組全体の強化(具体的に何をどうしたのかわからないが)と接合部の強化(リベットをボルトに替える)のふたつからなるものだったらしい。
しかしその新提案は書いてある英語が下手だったからフラー社側に提示されなかった、というのである。にわかに信じがたくもあるが、進んだニューヨークのフラー社の技術陣にケチをつけるようなことはしたくない、という心理的な自己規制が、外国通である分だけ強く桜井に働いたのかもしれない。
しかし、もし桜井が得意の英語で書き直して出したとしても、結果は同じだったにちがいない。郵船ビルの設計をやっていた曽禰中條建築事務所は、自分たちが耐震計算に基づいて描いた構造設計図をフラー社側に渡したところ、彼らは強度が過剰であることをいい張り、意見は鋭く対立し、結局、設計の権限は曽禰中條側にあるのだからということでフラー社側は折れたのだが、しかし、横浜に陸上げされた鉄骨は指示通りではなかった。設計権が日本側にある郵船の場合もこうなのだから、丸ビルの場合はなおさらである。
かくして破損を負った丸ビルは、鉄骨の回りを鉄筋コンクリートで包み、東京地震のときの鉄骨による筋かいを鉄筋コンクリートの耐震壁に作り替え、さらに、外壁の中空煉瓦と内側のメタルラス壁を撤去して鉄筋コンクリートにつくり替える、といった補強が加えられる。鉄骨構造を鉄骨鉄筋コンクリート構造につくり替えたのである。
構造が変わるのであるから仕上げは当然変わって、1階腰壁の人造石(キャスト・ストーン)は御影石に、2階以上のタイルとスタッコはモルタル壁に(後にタイルが貼られる)替わった。このときの改造は全面的で、現在、大正12年の完成時の仕上げ材が残っているのは、外壁の土台回りの御影石と1階通路のクリーム色のタイルくらいかもしれない。 以上が桜井時代の最後を飾った丸ビルについてである。