130th ANNIVERSARY

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丸の内をつくった建築家たち むかし・いま

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オフィス街の統一
──曽禰達蔵の時代

コンドルの設計で萌芽を見せた「オフィス街」丸の内。その後を継ぐのが本章の主役・曽禰達蔵です。
大名屋敷が連なる、幕末の丸の内を知る曽禰は、維新の動乱を経て、三菱社の「建築士」として、再び丸の内に帰ってきました。
前任・コンドルがプロットした「起点」ともいうべき建築。その様式を読み解き、統一された街並みと、調和をこの地につくり出そうと試みました。

明治29年の3号館の完成をもって丸の内建設の第1期は終わり、しばらく休んだ後、明治34年、4号館の工事が始まり、37年8月には完成し、引き続き5号館(明治38年7月)。6号館(明治37年7月)、7号館(明治37年7月)、と完成した。丸の内建設の第2期ともいうべきこの時期の地所を、1期のコンドルに代ってリードしたのが曽禰達蔵にほかならない。

曽禰達蔵

丸の内とは浅からぬ縁の生涯を送った建築家である。
彼の丸の内の記憶は、三菱入社よりはるかにさかのぼり幕末に始まる。
達蔵は、嘉永5年11月、唐津藩士曽禰政又の子に生まれた。
国許(くにもと)は唐津だけれども父が藩の江戸留守居役だったことから、江戸の屋敷で育った。父は江戸の文人としても名が伝わっているから、江戸文化の香りを存分に受けて育ったにちがいない。10歳になったころ、端整な容姿と利発さを認められたらしく、藩主小笠原長国の嗣子の長行(ながみち)の小姓に選ばれるが、この小姓づとめが達蔵を丸の内へと運んでいく。
小笠原長行は外国奉行の要職に就き、フランスのロッシュやイギリスのパークスらと難しい外交交渉を丸の内の外国奉行所で交すが、小姓の達蔵も付き従った。達蔵の回想によるとロッシュとの交渉が難しかったらしい。
丸の内は、彼にとって、小姓時代の思い出の場にほかならない。
大正5年建築学会の創立30年記念のとき、曽禰は丸の内の変遷について講演したが、そのときの講演だけでは「事足らぬ心地がする」ということで、建築の雑誌に続きを書き綴っているが、それを読むと、達蔵の心の中では幕末の丸の内がいつまでも生き続けていたことがよくわかる。
丸之内は前に言つた通り、四方堀に囲まれて居る所である故に外界との交通は濠上の橋に依らねばならぬが、橋の内には関門即ち見附があつて、屋外には突棒(つくぼう)刺股(さすまた)等、乱人捕獲用の武器が立て列ねられ、又屋内には関吏厳然と居並び、人は勿論、動物といはず、器具といはず、いやしくも此所を通過する凡てのものを監視するという状態で、しかのみならず夜はまた早くより大門を閉鎖し、通行人は必ず小門に由らねばならぬ制規で、あたかも戒厳令が常に布かれて居たようなものである。

されば丸之内の諸屋敷に住する婦女子は、夜中屋敷外に出るはほとんど皆無であった。屋敷の「プラン」は城郭に類し、周囲の長家は則ち外郭で其表通りに面するを表長屋といい、若し隣屋敷があらば、其境に近く建てられたるを裏長屋といひ、広大なる屋敷にては更に其内郭に当たる長屋を設くることあり、之を中長屋と呼ぶ……。
長家の等級は表長家が優等で、用人家老の如き重臣はこれに居住したのである。武者窓の間に出窓即ち出格子窓を交へたる所は是等上級人士の居所と見て誤りないやうである。
出窓に就ては更に少しく述べて見たい。けだし出窓は長家造の表面の単調を破る殆ど唯一の好斗出物で、殊に表門脇の出番所(門番所)の出窓は其最たるものであるが、なお、此外に出窓には特色がある。それは長さ数間、稀には十数間連続した出窓、しかも一階二階共に之を有する長屋の往々あつたことである。此を物見所と称し、屋敷の主公直属の場所であった。平素は全く閉鎖され、祭礼の神輿、花車、其他常になき珍しき行列の窓外を通行するとき、其室を開き、夫人を始めとして、奥向の人々が来集し、窓に篢簾(みす)を垂れて、内より窃かに外を望見したのである。所謂深窓の夫人の慰楽の一つで又間接に活社会を窺ふを得るの一法であつた。想えば実に優雅な事である。
(『建築世界』Vol.10、No.7)

丸の内の大名小路を体験した者ならではの細かい描写にちがいない。
この「想えば実に優雅な」江戸の街を達蔵は明治維新のとき、捨て去ることになる。明治元年5月、上野の山からの彰義隊の敗走のとき、達蔵もともに会津に向けて敗走した。小笠原長行を中心とする唐津藩の佐幕派の一員として、官軍に抗し、江戸を捨て、会津に籠った。そして、いよいよ会津攻城戦が始まろうとしたとき、長行は達蔵を呼び、包囲網を脱出して生きることを命じた。おそらく、唐津藩佐幕派の最後を国許に伝えるためと、どちらかというと文弱タイプの達蔵を勝目のない戦闘で死なすにしのびなかったのであろう。
こうして達蔵は生き残ったが、この体験は彼の心に深い影を落とすことになる。
十数年前、曽禰達蔵の長男の曽禰武氏に聞き取りをしたとき、「父は、終生、自分は歴史家になりたかった、と何かあるたびグチをこぼしていた」ことを教えられたが、おそらく達蔵は死に遅れた者として過去に生きたかったのであろう。
しかし、没落した士族の子弟として食うために実学を選び、工部大学校に第1回生として入り、コンドルに建築学を学び、明治12年、卒業する。
卒業後、しばらく大学に残った後、警視庁を経て海軍に技師として入り、呉の鎮守府で軍施設の建設に当たった。
しかし、大きな不満があった。当時、一流の建築家になるには、西洋館の母国である欧米への視察か留学は不可欠で、第1回生の仲間4人のうち辰野金吾と片山東熊はすでに体験しているというのに、自分にはなかなかチャンスがない。後輩も次々に勤め先から海外へと送り出されているというのに、このままだとどんどん遅れをとる。あせった曽禰は、明治22年の末か23年の初頭に海軍の上層部へ海外出張派遣の願い出をするが、蹴られてしまった。
温和で知られた曽禰だが、ついに辞職を決意し、そのことにつきコンドル先生に相談をした。当時、工部大学校の卒業生は官庁に勤めるのが原則であり、曽禰も卒業以後そうしていたのだが、この時点で官界を離れることを決意したようである。すでに政府との縁の切れたコンドル先生に相談したのは、これ以後民間で生きようと決めたからにちがいない。以後、彼は民間の建築家として明治、大正、
曽禰達蔵による第5号館(手前)と第4号館

昭和の三代を生き続け、戦前においては最高最大の民間設計組織として知られる曽禰中條建築事務所を育て上げるが、こうした“脱官入民”の姿勢の奥には、維新のときの体験からくる明治新政府へのなじめなさが隠されていたにちがいない。さて、明治23年のこと、曽禰が辞官の相談をすると、コンドルは丸の内の開発計画について話し、三菱への紹介の労を取ってくれた。三菱の側も、本来なら建築畑の筆頭社員としてコンドルを助けて働くべき藤本壽吉の病没の後で、代るべき人物を必要としていたから、莊田が曽禰と面談した。こんな細かいことは書くまでもないが、ちょうど100年前の地所の人事の雰囲気がわかるから曽禰の回想を紹介しておく。

「(三菱社は)駿河台紅梅町にて木造西洋館に居ました。会社にて面会したのは故莊田平五郎氏でありました。多分メンタルテストの趣旨が主要であったかと思う。兎に角会社の計画の大略の話があり、私が会社に向っての希望など尋ねられた。そこで話が決って呉(海軍鎮守府)に帰って来たのです。」

会社に向かっての希望をたずねられたとき、曽禰は海外視察の一件を切り出したのはまちがいない。

「それから三菱の人となり、最初は建築士と云う職名の辞令でありました。……其頃は建築技師なる称えが朝野ともに普通でありましたから、私は三菱の辞令書の建築士の称号を奇異に感じました。さていよいよ三菱に入って知りましたのは当時の社長は彼の有名であった土佐より出た商傑岩崎彌太郎の実弟彌之助と云ふ人で、現小彌太男(爵)の実父であった。又同社第一の重役は其前に一度面会した莊田平五郎さんであり、此人が丸の内の諸計画を担当して居ると云ふことでした。」
(『日本建築士』Vol.17、No.1)
「丸ノ内南方中部建物配置案」の立面図

この回想によると、曽禰は、自分の入る会社の社長がどういう人なのかも、自分と面接したのが誰なのかも、入社するまで知らなかったらしい。
明治23年9月12日付で曽禰は三菱に入社し、23年ぶりに丸の内に帰った。といってもまだ丸の内は昔の大名屋敷の名残りや陸軍の施設が空屋となって放置されているような状態で、曽禰は莊田とともに土手に登って地勢を眺めることから始めて、先に回想を引用したように、コンドルの指導の下でオフィス街づくりの実務を担い、1号、2号、3号館とビルを完成させていく。
この3作の後、丸の内の開発は小休止に入り、コンドルは丸の内の仕事から手を引く。ふたたびビルの建設が始まるのは4年後の明治34年で、4号館が着工して明治37年に完成し、引き続いて5号館(明治38年7月)、6号館(明治37年7月)、7号館(明治37年7月)と完成する。この4号館から7号館までの4作を設計したのが、曽禰達蔵である。1号館から3号館までをコンドル時代というなら、4号館から7号館までは曽禰時代といえよう。しかし、この5、6、7号館計画に先立ち別の計画を曽禰が立てていたことがこのたび判明した。

地所に残る図面の中に「丸ノ内南方中部建物配置図案 June 4. 1899」などと表記された一連の図面がある。明治32年6月4日、つまり5号館立案(明治33年9月)の前年、一丁ロンドンではなくその南側奥の一帯に‘‘丸ノ内町屋計画”ともいうべきオフィスビルならざる低層の洋風建築による一般的な町の開発が企てられていたのである。図面により知られるように1等から3等までの“町屋”を中心に、貸倉庫、勧工場(今のスーパーマーケット)、湯屋、馬車、人力車場を設ける。商家は2階建てのベランダ付の連屋形式で、裏手に付属家が設けられていることから知られるように明らかに明治10年完成の銀座煉瓦街計画を意識している。丸の内をビジネス街化するという政府と三菱の大方針とは向きの違うこの計画が一時とはいえ考えられたのは、おそらく、1、2、3号館完成の後、さらなる入居希望者が思うように現れなかったからであろう。この“丸ノ内町屋計画”の後、一丁ロンドンヘの需要が再び現れ、曽禰は4、5、6、7号館と手がけることになった。

「丸ノ内南方中部建物配置案」

曽禰はどのようなビルを建てたのであろうか。
まず手がけたのは、一丁ロンドンの東端の1号館と西端の2号館の間に建つ4号館と5号館の2棟だが、テーマは自ずと明らかで、両側に建つ1号館、2号館との関係をどうするかである。
もし、コンドルが1号館、2号館を同じ系統のスタイルでまとめていれば問題はなかったが、しかし、ひとつは赤煉瓦造の折衷系で、もうひとつは石造のバロックに傾きかけたルネッサンス系のスタイルであった。

このように先行者がバラバラのスタイルを提示したのだから、曽禰も、軒高だけを整えてあとは自由にスタイルを選んでもよかったはずだが、彼はそうせず、街並みとしての統一と調和を重んじる。
そのことは、図のように1号館と2号館の間に4号館と5号館を置いてみればわかるであろう。

一丁ロンドンと呼ばれた馬場先通りの立面図
左から
第2号館(明治28年:J.コンドル)
第5号館(明治38年:曽禰達蔵)
上・第4号館の原案(J.コンドルのデザインを踏襲していた) 下・第4号館(明治37年:曽禰達蔵) 
第1号館(明治27年:J.コンドル)

基準建築としてつくられた1号館をベースとしながら、屋根のつくり(フランス風の腰折れ屋根、丸形のドーマーウインドウ、傾斜の弱い尖り屋根)と壁の構成(柱型の付加、アーチ窓)でクラシック色を強め、2号館と何とか一致点を見いだそうとつとめている。
こうした努力の跡に気付くと同時にひとつの疑問も湧かざるをえない。街並みの連続的変化のためなら、むしろ、4号館と5号館は入れ替わったほうがよかったのではないか。このことは1階の窓のアーチに注目してみるとわかりやすい。

4号館は1号館の隣りに建つにしては1号館との差が強すぎる。
この件については面白い図面が残されている。明治33年9月に描かれた4号館の原案で、これを見ると実施案よりずっと1号館に近いことが知られるが、何かの事情で没になったのだろう。
並び方を入れ替えたほうがよかったかもしれない感はあるものの、曽禰が何とか1号館と2号館の間の様式的な距離に橋を架けようと努力している点は高く評価されよう。少なくともコンドルにはなかった姿勢だから。

第4号館正面出入口及び両側面の一部詳細図(明治34年9月)

第4号館

ついで6号館と7号館を見てみよう。
この2棟は一丁ロンドンの通りではなく、4号館と5号館の間を一丁ロンドンと直交して走る‘‘仲通り”に建てられ、位置は4、5号の側面に接していた。いわば、丸の内の脇道に建った最初の建物ということになるが、意外にもオフィスビルではなく、アパートメントハウスなのである。
丸の内の開発に当たり彌之助は、オフィスだけでなくそこに働くサラリーマンのための本格的なアパートと劇場と美術館を構想していたが、その構想に従って実現した。
これまでも丸の内に一時期アパートがあったことは知られていたが、その実体は地所の図面が整理されたことによってこのたび初めて明らかとなった。
図面を見るとわかるように、赤煉瓦造、地下1階、地上2階の本格派で、棟割り形式を取り、6号館、7号館それぞれ6戸、計12戸が入るようになっている。
各戸の構成は、「第六号一番戸末川氏住宅」などの図面によって明らかとなり、地階は女中部屋と台所に当てられ、1階は8畳、6畳の2室と風呂および便所、2階は8畳、6畳、3畳の3室。
こうした図面によって知られるように、赤煉瓦の西洋館の中で純日本式の暮らしが行われていたのである。
6号、7号と仲通りをはさんで向かい合って建っているが、その平面と立面は完全に同一であった。もちろん、まったく同一用途の建物だからあれこれ変えるような面倒はさけて同じにしても構わないのだが、そうした消極的理由だけでなく、仲通りの街並みを統一しようという積極的意志があったのではないかと思われる。このことは、引き続く仲通りの建設の中で明らかになろう。
明治37~38年4、5、6、7号館の4棟を完成させた後、翌39年10月、曽禰は定年により三菱を退社し、丸の内における曽禰時代は終わった。
曽禰時代の功績を数えるなら、ひとつはコンドルの後を継いで一丁ロンドンを完成させたこと、もうひとつはコンドルには薄かった街並みの統一をはっきり打ち出したこと、のふたつである。

こうした丸の内のビル設計のかたわら、曽禰は、三菱関係の次のような建物を手がけた。

〇三菱合資会社大阪支店(明治24年12月完成)
〇大阪製煉所(明治30年設計)
〇三菱合資会社神戸支店(明治33年完成)
〇占勝閣(明治37年8月完成)
〇東京倉庫会社兵庫出張所(明治38年7月完成)
〇三菱合資会社門司支店(明治39年6月完成)
〇三菱合資会社大阪支店(明治43年12月完成)

このうち明治24年の三菱大阪支店は入社早々の丸の内計画に取りかかった時期に手がけ、明治43年の三菱合資会社大阪支店は退社後、顧問として設計している。また、大阪製煉所は、これまで曽禰の仕事に数えられていないが、地所所蔵の図面の中にあり、曽禰時代に設計されているから、曽禰の仕事に加えるべきである。
いったいどこまでを地所の仕事とすべきかについては、地所に原図面が所蔵されるのはすべて地所の仕事と見なしていいと思う。コンドル設計の岩崎家関係の住宅に見られるように、基本設計が地所の外に事務所を開く顧問のコンドルによっていても、実施設計と直営工事は地所により担われている。地所の業務は、三菱関係の建築事業の設計と直営工事のふたつであり、このふたつのどちらかにひっかかるものは地所の仕事とみていい。また、後の例だが地所部技師長の保岡勝也が業余に設計した岩崎家関係の建物も、地所に図面が残る分については、直営工事を地所が受け持ったと考えられ、これも地所の仕事のうちに入ると見なされよう。
さて曽禰の丸の内以外の三菱関係の設計については、別に写真をまとめたページで解説する。
→資料 丸の内街区以外の四建築家の作品

第6及び7号館平面図

丸ノ内建物断面図 第1号から第18号館まで14棟の比較がわかる。

第6、7号館北及び南端七間公道切断図 三菱専用の下水道が敷設されたことがわかる。