130th ANNIVERSARY

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丸の内をつくった建築家たち むかし・いま

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大正の丸の内
──桜井小太郎の時代

明治から大正へと変わるタイミングで、技師長が空席となってしまった三菱。そこで、新たに迎え入れられたのが、ジョサイア・コンドルや辰野金吾の薫陶を受け、ロンドンで建築修行をした「若きジェントルマン」桜井小太郎でした。ジョサイア・コンドルとの関係、そして海軍で官庁舎を手掛けた経歴はまた、曽禰が歩んだ道でもありました。戦前で最も建築技術スタッフが充実していたというこの時代。明快な鉄筋コンクリート造のノウハウを確立し、日本最大の企業に成長した三菱合資会社の本社計画や、三菱銀行本店の建設(1922年)といった、発展期を迎えた丸の内の大型ビルが完成します。

明治45年に起工し、大正3年に完成した21号館を境に、丸の内はアメリカ系のオフィスビルの時代に入り、やがてそのピークとして丸ビルに至り着くことになる。時代としてはちょうど大正期に重なるが、この時期の地所をリードしたのが桜井小太郎である。
明治45年、21号館の設計途上に技師長の保岡勝也が辞めてしまった後、残された藤村朗と山下寿郎がトップなき地所の技術陣を率いざるをえなくなるが、しかし、藤村は大学出たての2年目、山下は新卒社員に過ぎず、まだとてもコンドル、曽禰、保岡と続いた丸の内のアーキテクトとしての重責は担えるわけもなかった。 そこで三菱はしかるべき建築家の推薦方を顧問の曽禰達蔵に相談し、曽禰は桜井に白羽の矢を立てた。曽禰から見てこれ以上の適任者は当時の日本の建築界にはいない。そのことは桜井のそれまでの経歴を見ればわかる。
桜井は明治3年、東京に生まれ、第一高等中学に入学したが、明治20年、本場ロンドンで建築家になることを夢見、渡英の決意を固めたが、しかしどうしていいのか具体的なことはさっぱりわからないので辰野金吾に面会し相談を持ち掛けた。辰野としては、ある日突然、18歳の青年からロンドンに行きたいアーキテクトになりたい、と相談され面食らったにちがいないが、しかし、“一高をちゃんと卒業してからでも遅くはないだろう”とか“一高を出て、まず工科大学に入り、卒業後留学したほうがいい”とか当り前のアドバイスはせず、桜井の希望が実現するよう本気で骨折ってくれた。おそらく、18歳の建築家志望の青年の中に何か輝くものを認めたのであろう。 三菱合資会社仮本社(第22号館)立面図 三菱合資会社仮本社(第22号館)大正7年 桜井小太郎 三菱合資会社東京本社コンペ案 図面の左上にNo.55到着日(明治45年)3月31日と記されていたのでコンペ締切日と合致する。

縁もゆかりもない白面の青年に、工科大学建築学科ただひとりの教授がそこまでしなくてもと思うが、辰野は、自分の講義を聴講することを勧め、またコンドルの自邸で個人指導が受けられるよう紹介してくれた。そればかりか辰野は、翌21年、日本銀行本店の設計の準備のため渡欧するに当たり、桜井を伴ったのである。 ロンドンに着いた桜井は、明治22年、ロンドン大学に入学し、そのかたわらロンドン大学教授ロジャー・スミスの設計事務所に見習いとして入り実務を学んでいる。そして明治23年、首席という好成績で卒業し、さらに研鑽を重ね、明治25年には23歳で栄誉ある英国王立建築士の称号を受けるに至った。日本人の第1号にほかならない。コンドルがこの称号を得たのが明治17年で35の歳だから、桜井の力のほどがしのばれよう。
それから1年半を欧州大陸の建築行脚に費やし明治26年に帰国した。
帰国後はコンドルの事務所に所員として入りドイツ公使館を担当した後、明治29年、海軍に入り、呉の鎮守府に勤め、長官邸や鎮守府庁舎といった名作を手がけている。そして海軍時代の最後の頃、業余にコンドルの諸戸邸(大正2年完成)設計を助けている。
そして三菱へと転ずるわけだが、以上の経歴を眺めれば、いかに適任者だったかが納得されるだろう。
ロンドン大学に学び、ロジャー・スミスの事務所で働くという経歴は、実はそのままコンドルがやり、さらにコンドルの勧めで辰野が歩いた道にほかならない。また、コンドルを師とし海軍を経て三菱へというルートは曽禰の道であった。
三菱の側にとってはほとんど自分のところで働くためのような経歴を持ち、その人物もコンドル、曽禰に負けず劣らず名利に恬淡とし清廉潔白なイギリス仕込みのジェントルマン、とくれば受け入れないはずもない。
大正2年3月26日、桜井小太郎は地所部に建築顧問として入社し、翌3年2月7日付で三菱合資会社技師となった。ここに地所の桜井時代がスタートする。
保岡の辞職後しばらく空位であった技師のポストが埋まり、地所の建築技術陣の陣容は充実するが、保岡時代の最後と比べてみれば、いかに充実したかが次のように明らかとなる。

<明治43年12月末現在の地所部営繕係の陣容>
技師  保岡勝也
技士  横山鹿吉
技士  三浦錬二
事務  津田鑿
技士  上領哲三
技士補 曽根田又雄
技士補 宇佐美喜惣治

<大正3年12月末現在の地所部工事係の陣容>
技師  桜井小太郎
技士  横山鹿吉
技士  三浦錬二
技士  上領哲三
技士  津田鑿
技士  藤村朗
事務  長沢昌子
技士  山下寿郎
技士  曽根田又雄
技士  寺田勇一
事務  若松竹次郎
技士  石原信之
技士  川元良一
技士補 竹内重太郎
技士補 岩佐信也
技士補 多和田明倫

以上のメンバー比べでわかるように、保岡時代の末期には大学で建築教育を受けたのは保岡ひとりだったのに、桜井時代のスタートは、桜井はじめ藤村朗、山下寿郎、石原信之、川元良一、と5名に増え、戦前の地所では陣容が最も充実した時代となる。
ではいったい、この時期なぜスタッフの充実が図られたのであろうか。大正の初期に貸ビル需要がそれほどあったわけでないことは、保岡時代の最後を飾った21号館以後にナンバーをひとつおいて建てられた23号館(大正4年)、24号館(大正6年)、25号館(同)、26号館(同)がそろって小規模か、平面は大きくとも階数が3階止まりであることからみても疑いえない。にもかかわらずスタッフの急増をみたのは、三菱合資会社の本社の計画が始まったからと考えていいだろう。21号館のすぐ後に続く22号館こそ三菱本社なのである。
大正期の丸の内の大筋の流れとは、すでに触れた丸ビルヘの道と、もうひとつ、新しい本社社屋の建設があった。
丸ビルと本社(仮本社)を含め、大正期の桜井時代に完成した丸の内の建築を年代順にリストアップしてみよう。
23号館(大正4年)、24号館(大正6年)、25号館(同)、26号館(同)、仲10号館の8号(同)、仮本社(大正7年)、仲15号館(大正8年)、仲2号館(同)、仲10号館の9号(同)、仲12号館(大正9年)、三菱銀行(大正11年)、そして丸ビル(大正12年)。
以上の12件のうち、ラストの丸ビルを除く11件について先に触れたい。

三菱合資会社仮本社(第22号館)1階平面図

仲2号館正面及び一部北側面図 大正8年 桜井小太郎

桜井時代になってから最初に手を着けたのはビルナンバーでいうなら22号館の三菱合資会社の本社屋である。
三菱の本社は、明治期を通して1号館の中に置かれていたが、日本最大の企業に成長するに至って手狭になり、明治44年頃には新社屋の計画が始まった。なぜそのことがわかるかというと、『建築雑誌』明治44年10月号にて「三菱合資会社本社設計競技」の開催が発表されたからである。
本社を自社の技術陣ではなくて外部の建築家にまかせコンペで良い案を募ろうというわけだが、民間企業の本社コンペは当時ほとんど例がなかった。
それなのになぜコンペに乗り出したかについての記録はないが、同時期に建築界を沸騰させ、社会的な大問題となった議院建築の一件が影響を及ぼしていたにちがいない。国会の設計を誰が手がけるかについての一件で、辰野金吾や曽禰達蔵はコンペを強く主張し、一方、主務官庁の大蔵省は自省の技術陣で済まそうとし、大問題となったのである。
おそらく国会コンペを主張する曽禰は、顧問をつとめる三菱本社の新築にあたりコンペ方式を採用することで国会コンペ推進運動の後押しを狙ったのであろう。『建築雑誌』への発表によると、コンペの方式は2段階コンペで、予選の締切は明治45年3月31日。審査員は岩崎小彌太、コンドル、曽禰達蔵、片山東熊など。このコンペのその後の経過ははっきりしないが、予選の後、1年して本選が行われ、結果は『建築雑誌』の大正2年4月号に発表された。1等当選、木子幸三郎。2等入選、池田稔。3等入選、内田祥三。
しかし、なぜかこの当選案は実施に移らなかった。理由について伝えられていない。
結局、本社をやめて仮本社と本社入居予定だった三菱銀行のふたつを建てることへと方向を転換するのだが、なぜ仮本社などという妙なものを考え出したかというと、おそらくコンペで決まった本社案の実行を避ける方便だったにちがいない。仮本社の計画は地所内部で進められ、大正5年4月には図面が描かれ、ただちに起工し、大正7年4月竣工をみた。
仮本社のデザインはもちろん桜井小太郎である。

もしコンペが実現すれば桜井以下の三菱技術陣は外部の建築家の指揮の許で実務と直営工事に働くはずであったから、コンペが流れたことは内部の技術陣にとってはもっけの幸いだったにちがいない。
この建物は写真と図面により知られるように、構造においては鉄筋コンクリートを使い、スタイルにおいては石張りのゼセッション様式を用いた堂々たる建築である。名は仮本社だが、内容は本社そのもので岩崎家の城にふさわしく、正面左手の2階フロアーには3代社長岩崎久彌(茅町主人)と4代つまり現社長の岩崎小禰太の執務室が置かれている。その立派さは図面に描かれたそれぞれの専用トイレからうかがわれよう。
三菱本社(上記仮本社を以後本社と呼ぶ)つまり22号館に次いで計画が始まったのは23、24、25、26、仲10号館の5件の貸ビルで、本社より後からスタートしたが完成は早く、大正4年に23号館、大正6年に24、25、26号館と相次いで完成した。この5件が桜井時代になってからの第一陣の実現例ということになるが、規模が小さかったり、階数が3階程度だったり、ほとんど見どころはない。
桜井の腕が振るわれるのはこの後で、26号館に引き続いて始まった仲15号館(大正8年完成)そして仲2号館(同完成)、仲12号館(大正9年完成)において明治の赤煉瓦ビルに本当に取って替わる新しい大正期のビルが姿を現す。
とりわけ桜井らしさを示すのは大正7年と8年に相次いで完成した本社と仲15号館で、この2件は本社ビルと貸ビル、と用途はちがっていても、技術やデザインといった建築的内容は同じであった。
まず技術から見ると、保岡時代の最後を飾った21号館が、鉄骨造と鉄筋コンクリート造をメチャクチャに混ぜた奇怪なつくりであったのに対し、桜井時代の22号館(仮本社)以後は、ちゃんとした鉄筋コンクリート造になる。こうした鉄筋コンクリート造技術の確立には、構造担当の山下寿郎の働きが大きい。明治45年の山下の入社以前、地所には大学教育を受けた構造技術者がおらず、ゴチャマゼの21号館などはたたきあげの横山鹿吉が、ソロバン片手に勘と経験で場当り的に構造設計をしていたという。

仲15号館1階平面図(右に第27号館とあるのは当時の呼称) 明冶45年 桜井小太郎

仲15号館断面図 大正6年11月30日

次いで、平面計画を見よう。保岡時代最後の21号館によって棟割り形式が克服され、以後、アメリカ流の経済合理的な平面計画に変わっていく、とすでに述べたが、桜井時代に入って一時ちょっとした反動がくる。23号館から26号館までの、先に「ほとんど見どころはない」と説明した4件の貸ビルは実は棟割り形式でつくられている。理由は、借り手の中に、入口やホールや廊下や諸設備を共有する新形式を嫌がり、昔ながらの棟割り形式を好む者がまだまだ多かったからだという。たしかに、部屋を一歩出るともうそこは共通の場で見知らぬ人が行き来し、隣りの部屋に行くにもいったん外部にさらされるような感覚は、独立家屋になじんだ日本人にはなかなかなじめなかったのかもしれない。
このように一時の後退は余儀なくされたものの、桜井時代の最初の主要作である本社、仲15号館、仲2号館の3件においては、たとえば仲15号館の例を見るとわかるように、アメリ力流の合理的な平面計画が実現している。
周囲に貸室を回し、中央部にライトウェル、ホール、エレベーター、階段、便所、湯沸所をコンパクトに集めた合理的な平面になっている。
ライトウェル(採光井戸)が取られているけれども、後に昭和2年の大阪建物東京ビル第1号館(渡辺節設計)で実現するコアシステムの原理はすでに打ち出されている。コアシステム傾向を示した第1号として知られる三井貸ビル(明治45年)を、一歩進めた平面といえよう。
技術と平面計画が進歩したのと同様、デザインも桜井時代に入って一変する。
保岡時代は、最後の21号館が鉄骨と鉄筋コンクリート技術を使いながらも外観においては赤煉瓦を張り、ドームを乗せていたことからも知られるように、赤煉瓦によるクイーン・アン系の伝統を守っていた。

一方、本社と仲15号館は、赤煉瓦を一切使わず、代りに石と白色系のタイルを貼り、屋根の上にはドームを乗せたりせずにキューと軒線を引いて箱形に納める。スタイルはイギリスのクイーン・アンを離れ、大陸のゼセッション様式を基本とする。
ゼセッション様式というのは、19世紀末に最後の華を咲かせたイギリス建築に取って替わってウィーンで誕生した新スタイルで、クイーン・アンのような歴史的様式から分離していることからゼセッション(分離の意)と呼ばれ、19世紀末に芽を吹いた後、20世紀初頭にはドイツをはじめ大陸に広がり、日本へも明治末年には入り、それまでの日本の建築界の保守本流であったイギリス系に取って替わり、ドイツ系隆盛の一翼を担ったスタイルである。
桜井はいささか複雑な心境だったにちがいない。教育も実務もずっと長らくイギリス派として過ごしてきたのに、三菱に入ったとたんドイツ系のデザインを手がけることになった。もちろん技師長として自ら選んだスタイルだが、おそらく、もはやイギリス系が通用しないことを淋しさとともに自覚し、最新のゼセッションヘと方向を転じたのである。
以上が、桜井時代の第一陣ともいうべきゼセッションのビルについてである。
これらの仕事が大正9年に一段落した後、桜井は三菱銀行の本店の設計に着手し、大正11年3月完成させている。

右より第26、25、24号館 大正6年(いずれも同年竣工)桜井小太郎 三菱銀行本店正面外観 大正11年 桜井小太郎 三菱銀行本店の列柱 大正11年 桜井小太郎 三菱銀行本店の営業室 大正11年 桜井小太郎

ここでスタイルはまた変わり、石の列柱を堂々と並べるギリシャ神殿風を採用している。20世紀に入ってからのこうしたギリシャやローマの神殿に範を取ったスタイルを何と呼ぶかはまだ定まっていないが、ここでは仮に“ネオ・グリークリヴァイヴァル様式”として話を進めると、このスタイルはその堂々たる押し出から銀行や保険会社の社屋に好んで採用されている。お金を預ける側から見て頼りがいがあるということであろう。
ネオ・グリークリヴァイヴァルの銀行が日本に登場するのは大正に入ってからで、大正2年の村井銀行(吉武長一設計)や大正5年に完成した三井銀行神戸支店(現第一勧銀/注:執筆時 神戸支店 長野宇平治設計)あたりを皮切りとし、大正から昭和にかけて金融界に一気に広がって、銀行や保険会社の定番スタイルとなり、三井銀行(昭和4年、トロゥブリッチ・エンド・リビングストン社設計)、明治生命館(昭和9年、岡田信一郎設計)などの傑作を今に残している。
三菱銀行はそうした流れの中のやや早目の例として実現したのである。
桜井は、本来の自分の好みのイギリス風とは別に、時代の傾向に敏感に反応してゼセッション様式のビルをつくってきたことをすでに述べたが、三菱銀行の場合も同じで、銀行+信頼=ネオ・グリークリヴァイヴァル、という定式に従った。しかし、他のネオ・グリークリヴァイヴァルの銀行と同じかというと、そこはさすがに質実を旨とするイギリス仕込みだけあり、派手なフランスの影響を強く受けて成立したアメリカ系の三井銀行や明治生命館とは異なり、外観においては小ぶりに引き締まった印象を与え、インテリアは重厚の中にも軽やかさが漂っていた。
こうした印象の問題は、実物を前にしないと納得しづらいが、三菱銀行が解体される前に僕は見比べてそう感じたのである。見たことのない人は、せめて写真で、桜井のイギリス風隠し味を味わっていただきたい。
以上が、大正2年に始まった丸の内の桜井時代のうち、丸ビル以前についてである。
大正2年から12年に至る桜井時代は、本社、三菱銀行、丸ビルといった大型ビルの工事が相次ぎ、多忙な地所は丸の内の自社ビル以外の仕事はあまり手がけていないが、それでも丸の内や三菱関係の設計をいくつか引き受けていることが図面から知られる。それらのうち、貸家や農場などの簡便な作を除いて、見るに値する建物としては次のものがある。

〇岩崎家赤坂丹後町別邸(大正6年設計)
〇幣原(しではら)邸(大正10年設計)
〇鉄道協会(大正3年設計、5年竣工)
〇台湾銀行東京支店(大正3年設計、5年竣工)
〇横浜正金銀行東京支店(大正10年設計)
〇東洋文庫(大正13年竣工)
〇静嘉堂文庫(同竣工)
〇三菱銀行京都支店(大正14年竣工)

幣原邸は岩崎彌太郎の女婿の幣原喜重郎の家であり、鉄道協会と台銀東京支店と横浜正金東京支店は各社が丸の内の三菱の土地を借りて建てたもの。東洋文庫と静嘉堂は、岩崎関係の図書館建築で、桜井は技師長時代にこれらの設計に着手したが、退社後、仕事を桜井小太郎建築事務所で引き継いで完成させている。三菱銀行京都支店も同じ事情による。
以上のうち、銀行や図書館などはこれまですでに知られた作品であるが、岩崎家赤坂丹後町別邸と幣原邸はこのたび地所の図面で初めてわかったものである。ともにイギリス木造のチューダー様式を取り、いかにも桜井の手固い作品となっているが、とりわけ岩崎家赤坂丹後町別邸は、日本の民家風との折衷を試みたチューダーとなっており面白い。
これらの諸作についてはページを別にして紹介する。
→資料 丸の内街区以外の四建築家の作品