130th ANNIVERSARY

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丸の内をつくった建築家たち むかし・いま

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一丁ロンドンの誕生──コンドルの時代

1890年(明治23年)、いよいよ丸の内の街づくりがスタートし、三菱地所設計のルーツである「丸ノ内建築所」が設置。ジョサイア・コンドルを顧問に据え、曽禰達蔵や新たなスタッフを迎えた、三菱社のインハウス設計事務所としての体制が整いました。
本章では、「日本初のオフィス専用街の都市計画と建築設計」が、同じく「日本初の民間組織設計事務所」でいかにして行われたのかを、曽禰による回想とともに辿ります。そこでは、都市への視座=「ストリート性」を持たせた建築づくりが意識的に行われていました。
「第1号館」をはじめとする日本最初期の賃貸オフィスビルディングの構成、「一丁ロンドン」と言われた統一性ある街並みがなぜ実現したのかを、豊富な図版とともに読み解いていきます。

海から陸への転身を決意して、丸の内の一括払い下げを受けた三菱は、明治23年、いよいよ街づくりに取りかかる。
体制としては、明治23年9月丸ノ内建築所を設置し、経営陣からは莊田平五郎が出て指揮を取り、コンドルを三菱社顧問に招き、丸ノ内建築所のトップ技術者としては曽禰達蔵を雇い入れる。さらに明治25年9月、帝大建築学科新卒の真水英夫を雇い、コンドル→曽禰→真水のラインが固まる。なお真水は3号館完成の後、明治29年5月、三菱を退社し文部省に入って帝国図書館を手がけている。
こうした体制に立って本邦初のオフィス専用の街づくりが具体的にどのように始められたかについては、曽禰達蔵の克明な回想があり、やや長いがこれまで紹介されていないので紹介したい。

丸ノ内の方は大体まあ小規模のタウン・プランニング即ち都市計画を小地域に施行し、其予定の区域に各適当の建物を模範的に作らんと云ふのです。

もっとも丸ノ内も其時は既に東京府で道路だけは縦横に主要なるものを図紙の上には定めてありましたのですが、是れは真に所謂紙上の設計でいつ其体形を実現するか判らなかったのです。三菱にては丸ノ内の正確なる地図がありませんから、私が着任してから何はさて置き先づ測量専門業者をして丸ノ内を実測させることとなりて、可なり大なる平面地図を作らせました。
次は之に因て更に必要な私道を作ること、建物の種類分布を予定すること、建物としては何を先づどこ建設すべき乎、道路面の高低決定及び施工時期を東京府に委だぬべき乎、大小下水は如何すべき乎と問題はそれからそれと多々あるのです。……今日でこそ建築家ならずともタウン・プランニングを口にする程だが、以前は日本の大学ですらタウン・プランニングに就ての講義もなければ、之に関する知識は殆んどなかつたのである。それであるから全計画には見当が附かない。

「丸の内に最初に建ったJ.コンドルによる第1号館(明治27年) 外観は折衷スタイルで尖った屋根はゴシックを、窓回りはクラシックを感じさせるエリザベサン様式 この1号館が竣工した後、2、4、5号館が引き続きつくられて、いわゆる“一丁ロンドン”と呼ばれた街並みが馬場先通りに形成された。」

三菱には以前から日本建築を担当して建築材料にも精通せる岡本春道と云ふ人が居りました。保岡勝也さんのお舅さんです。私より年齢は少し上で土佐の人で大いに心易くして居りました。老練家でありましたから、建築材料の買入、大小建築請負者の選別、官庁との交渉、特に東京府庁、警視庁との交渉等は大抵此人と相談もなし、又直接其手足を煩はして大層都合が好かつたのでした。
莊田さんが言はるるのに、丸ノ内の地質は是れまで一向に判って居らぬから、今より能く其地質を調査して置きたい。それにはボーリングをやらなければなるまいとのことであつた。其時分に建築の方では東京でボーリングを試みたことはまだ一般になかつたと思ひます。……鉄道寮とか鉄道局(此頃は逓信省に属して居つたと思ふ)から其機械器具を借入れて、丸ノ内三菱新所有地内に十二、三個所深さ60尺─70余尺試掘して其地層と其硬軟を調査しました。前にも一寸述べましたが、当時三菱は駿河台に居つて、私は其ー室を製図場として居ました。さてボーリングを始めては毎日つづけてやらねばならぬからして、誰か其現場係に適当な人を得たいと思つて居る所に、莊田さんが自分の家の書生に横山鹿吉と云ふ物理学校の第1回卒業生が居る、中々綿密な男だから使つて見て呉れぬかと言はれて、至極適当と早速初めて1人助手として雇い入れ、毎日ボーリングの現場に出て督役と調査に当らせた。一方にては出来上った平面測量図上に、東京府の大小縦横の予定道路を基準とし、更に三菱の要する道路を南北に長く二條、東西に数條作り、大体何れの道路に面しては大建物を作り、何れの道路に面しては階数少なき住宅も建て連ね得るものとなしたのである。次は此新敷地に建築すべき建物は先づ三菱本社と百十九銀行となし、夫れだけにては建物の面積僅にて足り、大建物の体をなさざるゆえ、建物を大にして必要部分以外の室は洋風の賃貸室とし、追つて賃貸者の入るを待つとし、さて其敷地を何れにするかに就ては、今後総ての建物の基準となるものゆえ、特に会社にては熟慮を重ねて決定した。……其位置に作る建物の階数と軒高、地下室の有無についても標準建物のこととて、評議を尽して斯く定つたことは言ふまでもありませぬ。其評決に従つてコンドル先生が設計せられて今申した建物が出来ました。之を一号館と称し、明治27年6月竣工し、三菱会社と銀行が駿河台より移転して、其翌月1日よりここで営業しました。」
(『日本建築士』Vol.17,No.1)


丸の内のタウン・プランニング開始から1号館誕生までの事情は、この回想以上にほとんどわかっていないから、これで僕の記述に代える。

こうして明治27年6月に1号館が完成し、引き続き28年7月に2号館、29年2月に3号館が完成し、事業は一段落を迎える。そしてこの通りは‘‘一丁ロンドン”と呼ばれるようになった。
いったいどのようなインフラと建物が誕生したんだろうか。まずインフラからみると、道幅は36メートルと十分に広く(現在と同)、もちろん歩道と車道の分離、街路樹、電灯による街灯は実現した。しかし都市ガスと水道については思うにまかせなかった。
ガスを引くことができなかったから、ビルの中の熱源としては石炭などに頼るしかなく、暖房は石炭のダンロによりなされ、また湯沸しなどはおそらく石炭か練炭かマキによりなされたにちがいない。丸の内にガスが引かれるのは明治43年を待たなければならない。
水道は、まず上水から述べると、江戸以来の流下式の水道しかなく、これに掘り抜き井戸を加えて水を供給した。丸の内に近代水道がやってくるのは明治32年のことである。下水は、雨水や雑排水については煉瓦造の三菱専用の下水を通して処理したが、便所についてはしようもなく、ビルごとに建物に接して汚水槽を設け多い場合は1日2回、少なければ2日で1回汲み取った。1号館の1階には水洗便所が設けられていたが、その処理は昔のままだったのである。
照明は、ガスがなく電気が引かれたことから、街灯も室内用も電灯が最初から使われている。
以上のようなインフラの上に立った建物についてやや詳しく述べる。
まず注目されるのは、建物がストリート性を持っていたことであろう。
それまで兜町ビジネス街でつくられていた建物は、第1号の第一国立銀行に典型的に現れているように、街中にスックとひときわ目立つ記念碑としてつくられ、決して周囲の街並みとの一体性はなかった。銀行や会社にもかかわらず門を構え、前庭を取る例も多かった。いってしまえば、各社、各組織が、一国一城の主として城をつくっていたのである。渋沢栄一に至っては、第一国立銀行の裏手に自邸までつくり、住み込んでいたから、まさに天主閣+御殿からなる城郭そのものだった。
こうした城として社屋の集まるところが兜町ビジネス街であったが、一方、丸の内のオフィス街はこのあり方を自覚的に否定し、まず各建物がひとつの統一あるストリートの中に収まるようにし、さらにそこに入る会社や組織は、一国一城方式ではなく、ひとつ建物の一部を借りる、つまり床を借りることとした。

「第1号館東側外観」 「第1号館1階平面図 L字型プランのコーナーに三菱銀行が入っていたことがわかる。」 「第1号館2階平面図」 「第1号館3階平面図」

一丁ロンドンが日本最初のオフィス街と称されるのは、第一にオフィス専用のストリートとしてつくられたこと、第二に貸床形式であったこと、のふたつによる。つまり今のオフィス街の原型にちがいないのだが、しかし、こと貸床形式については今といささか差もあって、厳密にいうと棟割り長屋方式で床を貸していた。1号館の平面図を見ると気づかれるように、正面に3つ、側面に5つと、入口がところどころに付いている。そして長屋のように入口単位で建物が分割されている。今のオフィスビルには考えられない方式だが、これが当時のイギリスの普通のビルのあり方だった。
次いで、ビルの表現についてみよう。
まず注目されるのは、兜町とちがい、ストリートとしての統一性が生まれたことである。1号館と2号館に若干の差はあるものの、ほぼ軒線の通りが整えられた。1号館がこうした統一のための基準としてつくられたことは、曽禰の先の回想に「標準建物のこととて、評議を尽して斯く定まった」とあることからも明らかだろう。
このようにストリートとしての統一感を重視した結果、ちょっと珍しい建物の使われ方が1号館で起こっている。
このたび初めて整理された三菱地所所蔵の資料をめくっているとき、アレッと思う1枚の古写真が出てきた。銀行の営業室らしく、列柱がいかにも昔の銀行らしい高い天井を支え、壁にはギャラリーも回っている。どこの銀行かと思い他の資料に当たると、三菱銀行でなんと1号館の中に入っていた。改めて1号館の平面図を見ると確かに角は銀行で、ちゃんと吹抜けになっているし、写真に写っている列柱の独得なキャピタルは1号館の取壊しのときの記録写真と一致するから、まちがいない。
1号館の外観を眺めているかぎり中には均等なオフィス空間しか予想されないが、実は2階分吹抜きの大空間が収まっていたのである。
さて、一丁ロンドンは大筋としてはストリートとしての統一性が打ち出されているのだが、しかし第一陣としてつくられたコンドルの1、2、3号館を見ると、建築のスタイルとしてはかならずしも統一しているとはいいがたい。1号館と3号館のスタイルは似ているのだが、2号館は明らかに別だ。

「第1号館1階に入っていた三菱銀行の営業室」

このことは、1、3号館は鮮やかな赤煉瓦を使い、一方、2号館は石とスタッコで石造風に仕上げていることに端的に現れている。
まず1号館のスタイルについて述べてみよう。大きく分ければイギリスのヴィクトリア朝のスタイルである。ヴィクトリア朝をリードしたのはヴィクトリアン・ゴシックと呼ばれるゴシック様式で、ゴシック式の造形と赤煉瓦の色鮮やかな仕上げを特徴としているのだが、しかし1号館はヴィクトリアン・ゴシックとはいえない。尖った屋根と赤煉瓦の仕上げ、そして何となく垂直性が強いところにゴシックの名残りは漂っているのだが、開口部回りを見ると、円柱もペディメント(三角破風)もキーストーンもゴシックの敵役のクラシックのつくりを基本としている。
しかし、純粋にクラシックのオーダーに立脚しているかというと、そんなことはなくて、窓回りに顕著なように崩したり、ゴシックの名残りを残したりしている。ヴィクトリア朝も盛期を過ぎ、晩期の1870年代に入るとゴシック系からクラシック系へのズルズルした移行が始まり、折衷スタイルが生まれるが、そのひとつといったらいい。

当時の折衷を代表するのはクィーン・アン様式だが、それとは違い、どちらかというともうひとつの折衷スタイルであるエリザベサン様式のリヴァイヴァル版に近い。当時のコンドルはエリザベサンを好み、代表作として岩崎家茅町邸(明治29年)をつくっているが、その第1案と同じディテールが1号館に観察されるのである。
では2号館はどうであろうか。ゴシックの造形は一切なく、クラシック系に属するが、数あるクラシック系のうちどのような来歴のものだろうか。左手角のドングリ状のドームや右手のムクリ屋根はフランス建築に典型的だし、2階の張出しに付く三連一組の開口部はイギリス好みの典型として知られるセルリアーナ(パラディアン窓)にちがいない。ヴィクトリア朝のクラッシック系様式を代表するネオ・ルネッサンス様式は20世紀初頭にはフランス建築の要素を取り込んで、エドワーディアン・バロックと呼ばれるクラシック様式へと収束する。2号館はそうした傾向を先駆的に見せるひとつといったらいいであろう。

J・コンドルによる第2号館(写真:日本建築学会)
「第2号館南立面図(J.コンドル)」
「第1号館南立面図(J.コンドル)」

以上の3作がコンドルのオフィスビルだが、彼はこのほか実現しなかったが、彌之助の要望により丸の内に美術館と劇場を計画し、劇場はイスラム様式で飾っている。丸の内にイスラム様式などというと唐突に感じられるはずだが、コンドルはいかにもイギリス風の建物のほかにもうひとつ東方趣味のスタイルが大好きであった。
以上がコンドルの丸の内関連作品である。コンドルによる丸の内の話としてはここまででいいのだが、しかし、三菱地所の話としてはコンドルとの付合いはもっと広がる。丸の内の事業と併行し、さらに3号館の終わった後もコンドルは三菱関係者の邸宅をつくり続けている。
こうした邸宅の仕事は、建築史の上では普通、三菱地所とは切り離しコンドルだけの問題として扱われるが、三菱の側に力点を置いてみると、地所の事業ともいえるのである。コンドルと三菱とのちぎりの第1作である岩崎家深川別邸は、すでに見たように基本設計までがコンドルで、実施設計はむろん施工も三菱の地所係の直営工事として実現しているから、三菱の仕事のひとつに数えてきた。明治23年以後、コンドルは三菱の顧問のポストについており、その上で三菱関係者の邸宅のデザインを引き受け、その工事は地所が直営として遂行しているのだから、これらも地所の仕事のひとつに数えても許されるだろう。
次のような邸宅が知られている。
〇荘田平五郎邸 明治26年
〇岩崎家駿河台邸 明治27年
〇岩崎久彌邸(茅町) 明治29年
〇松方正義邸(仙台坂下) 明治 年
〇同(三田小山町) 明治 年
〇赤星鉄馬邸(大磯) 明治40年
〇末延道成邸 明治40年
〇岩崎彌之助邸(高輪) 明治41年
〇岩崎家箱根湯本別邸 明治42年
〇近藤邸 明治42年
〇岩崎家玉川廟 明治43年
〇加藤高明邸 明治44年
〇赤星邸(赤坂) 明治45年
〇岩崎家元箱根別邸 大正2年
〇諸戸清六邸(桑名) 大正2年

明治23年に38歳で顧問に就任してより大正9年に68歳で没するまでほぼ全期間を通して、三菱の社主や重役などの邸宅をつくり続けたのである。
岩崎家そして三菱は、建築家コンドルの終生のパトロンであった。
以上のうち現在残っているのは、岩崎久彌邸(現、法務省司法研修所)、岩崎彌之助邸(現、開東閣)、岩崎家玉川廟、諸戸清六邸の4棟である。
と書いた後、マ・テ・ヨ?
もしかしたら加藤高明邸がまだあるかもしれない!
話は20年近く前にさかのぼるが、大学院の学生時代に“東京建築探偵団’'というのを僕はやっていて(今も、名前だけは残しているが)、東京中の西洋館の所在をチェックしていたのだが、成城を調べているとき、下見板を張った由緒不明の西洋館と堂々とした和館があり、オーナーの斎藤裕氏に連絡すると、「加藤高明の家を移した」との返事があった。とすればコンドル設計の可能性が出てくるが、当時は個々への踏込みはあまりやっていなかったので、そのままにしてそれ以上の追求はしなかった。このデータを公表して以後、成城の斎藤邸は明治期の旧加藤高明邸、ということで、世田谷区の西洋館関係の出版物には顔を出し続けて20年になるのだが、しかし、旧加藤高明邸とコンドルの関係に気付く人もないのか、気付いても僕同様腰が重いのかで、改めて確認した人はいない。で、この原稿はひとまず休んで、このチャンスに調べることにした。
三菱地所に出向いてコンドル設計の加藤高明邸の原図のコピーをもらい、それを持って成城に出かけた。
結果は、ア・ウ・ト。和館は麹町の加藤邸を移したと見られるが、洋館の方は規模もスタイルも細部も図面とは違う。図面を省略して実現した可能性もあるから、「加藤高明伝」の口絵写真で確かめると、図面どおり実現している。斎藤邸の洋館がコンドルの旧加藤邸を移した可能性は限り無くゼロに近い、と言わざるを得ない。
以上が、丸の内の草創期のことと、それをリードした建築家コンドルの三菱関連の作品についてである。
ここで、そうしたコンドルの人と事蹟についても、レスカス、山口半六、藤本壽吉と同様に綴ったほうがいいかもしれないが、有名な人ゆえ書かれた出版物も多いからここでは触れないことにする。

「馬場先通りの西端に対峙していた第2号館(左:明治28年:J.コンドル)と東京商業会議所(右:明治32年:妻木頼黄)」

「第1号館立面及び断面詳細図」

「第1号館2階窓回り詳細図」

「第1号館2階窓回り詳細図」

「第1号館出入り口ドアー詳細図」

「第2号館南側昇降口詳細図」

「第3号館大階段詳細図」

「第I、2、3号館断面図(階高と窓の位置を比較した図)」

「『丸ノ内第壱号第弐号第参号建物間取』帳 左側は第3号館と倉庫の間取りを表しているが、右側の図は第1号館の間取り上部に貸家料が明記されている。」