130th ANNIVERSARY

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三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973 三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973

丸の内における事務所ビルの平面計画の変遷

本稿では、本書に収録した「第1号館」から戦後の「三菱ビルヂング」までの古図面を用い、丸の内における事務所ビルの平面計画に焦点を当てて、その変遷を概観したい。同一地域(丸の内)における同一設計組織(三菱地所設計)による同一用途(事務所ビル)の建物を検証することで、近代を通して変化・蓄積させてきた三菱地所設計の設計思想や手法の一端を考察する。

ストリートを形成した棟割長屋の煉瓦街

1890(明治23)年、丸の内一帯の一括払い下げを受けた三菱社は、「丸ノ内建築所」を設置し、街づくりを開始した。ジョサイア・コンドル(1852─1920年)の設計による1894(明治27)年竣工の「第1号館」を筆頭に、馬場先通りを正面ストリートとして煉瓦造の街並みができ、引き続き曾禰達蔵(1852─1937[嘉永5─昭和12]年)、保岡勝也(1877─1942[明治10─昭和17]年)によって正面ストリートを馬場先通りから仲通り・東仲通り・西仲通りへと延伸させながら、煉瓦街がつくられていった。

明治期のビルに共通する特徴として、全階縦割りのスペースを1テナントに貸す棟割長屋形式[1]が見られ、それぞれ専用の玄関、階段、便所、給湯室、暖房等が設えられた。「第1号館」は、馬場先通り側の正面に3つ、側面に5つの玄関が付けられ、三菱合資会社と銀行部営業室の部分を除いて、各1階から3階までを1単位として建物が分割されている。

それは当時の人びとの一般的な感覚であった「自分の門は自分だけの占有で他人と共有するものではない」という考え方に基づくものであった[2]。その考え方に基づけば、明治初期につくられた兜町ビジネス街の三井組の建物[3]のように、江戸期の大名屋敷の構えを踏襲し、1社ずつ1敷地に門と建物を構える街づくり[4]もあり得たと思われるが、あえてそれをやめ、街路に面して建物を並べ統一感あるストリート的都市空間を形成[5]したところに、丸の内の街づくりの先進性が見られると言ってよいだろう。

[1]「第2号館」(1895[明治28]年竣工)以降の平面図を見ていくと中廊下式の建物も多く見られるが、これらはビル1棟に1テナントのみが入居する前提で設計されている。したがって、ひとつの建物に複数テナントが入居する建物は棟割長屋形式となり、1テナントのみが入居する場合は中廊下式となる。
[2]『丸ノ内今と昔』(富山房、1940[昭和15]年)には「貸事務所というものの意味が一般に理解されていなかつた(中略)とかく一棟の建物を専有したがる氣風があつた」とある。
[3]1874(明治7)年の駿河町三井組の建物。初田亨『東京都市の明治』(筑摩書房、1994[平成6]年)に詳しい。
[4]陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房、1985[昭和60]年)では、明治初期の近代建築の都市におけるひとつの構成として「屋敷構え」を挙げ、「周囲に空地をとって塀を巡らし、門を構えて格式を表現」したとある。
[5] 岡本哲志『「丸の内」の歴史丸の内スタイルの誕生とその変遷』(ランダムハウス講談社、2009[平成21]年)には、丸の内に先行する西欧をモデルとした都市建設の例として、1877(明治10)年完成の「銀座煉瓦街」や1887(明治20)年前後のヘルマン・エンデ(1829─1907年)とヴィルヘルム・ベックマン(1832─1902年)の「官庁集中計画」を紹介している。

大正期における合理的プランへの発展

大正期に入ると、シカゴやニューヨークのスカイスクレイパーを手本とし、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の事務所ビルの形式が導入された。1テナントが棟割で借りる形式から、共用の中廊下に面して区切られた部屋を借りるという、今日の一般的なオフィスビルと同様の形式[6]へと移った。

そのような変遷の過渡期的“迷”作と言えるのが1914(大正3)年竣工の「第21号館」である。中廊下形式の丸の内第1号であるだけでなく、平面の変遷の過渡期的な特徴を示す重要な建物である。以前と明らかに異なり、ビルの隅に大きな玄関ホールがあり、そこに通じる廊下に面して各部屋が並ぶ。今では当然だが、複数テナントが入居するビルでありながら、玄関ホール、廊下、エレベータ、便所、湯沸所をシェアする形式は画期的であった。

この形式には貸しビル業としてふたつのメリットがあった。ひとつ目は玄関、廊下、階段を共用とすることで、延床面積に対する貸床面積の比率[7]が向上した。ふたつ目は初めから小さな部屋に仕切るのではなく、入居者が決まった段階で構造上必須の壁は確保した上で必要面積だけ仕切って貸すことが可能となった[8]。それらのメリットは平面形式の変化だけに由来するのではなく、分厚い壁で区切られた壁構造の煉瓦造から、間仕切り壁が構造体としてさほど重要でなくなる鉄骨造・鉄筋コンクリート造の構造的な特色をうまく活かしたものだったと考えられる。

ただ初めての試みゆえ、迷いながら手探りでつくった感が否めず、今から見ればおかしな点も多々見られる[9]。例えば、今では複数のエレベータを1カ所に集約させるのは普通だが、「第21号館」は玄関ホール側に1台、そこから反対側に離して1台と別々に配置された。また、上下の階で柱位置が揃っていない、鉄骨柱と鉄筋コンクリート柱が交互に並んでいる……と奇妙な点は尽きず、過渡期の建物として位置付けられよう[10]。

「第21号館」で平面計画のひとつの節目を迎えるが、桜井小太郎(1870~1953[明治3~昭和28]年)が技師長になり、よりいっそう合理的な平面へと進歩する。その最たる例は1919(大正8)年竣工の「第27号館」で、事務室を周囲に配し、エレベータや階段、便所、給湯所といった共用部は中央にまとめており、丸の内初のコア・システム[11]がはっきりと見て取れる。

一方で、すべてが中廊下形式に移り変わるわけではないこともまた興味深い。1917(大正6)年竣工の「第24・25・26号館」の3棟においては、地階から3階までを1単位として専用の玄関を設ける棟割長屋形式が相変わらず採用されている。当時まだ根強く残っていた長屋の棟借りの需要に応えようとしたものであろう。

こういった古図面からは、最先端に果敢に挑む開拓精神が見られる一方で、その時々のテナント需要に確実に応えようとする姿勢も同時に読み取れる。試行錯誤の過程に、先進性と保守性の両面が同居するのは、現在まで残る三菱地所設計の社風であるように思う。

[6] 『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史 上巻』(三菱地所、1993[平成5]年)( 以降、「社史」と略す。)
[7] レンタブル比と呼ばれ、この比率が高いほど貸しビルとしての収益性は高まる。
[8] 社史 上巻
[9] 藤森照信「丸の内をつくった建築家たち―むかし・いま―」『新建築1992年4月別冊 日本現代建築家シリーズ15 三菱地所』(新建築社、1992[平成4]年)
[10] 「第21号館」に関しては、基本設計は保岡が手掛けたが直後に退社してしまい、後任の桜井小太郎が来るまでの技師長不在の期間に、実施設計を行わざるを得なかったことも要因のひとつだろう。「第21号館」の図面には当時の地所部長赤星陸治(1874~1942[明治7~昭和17]年)の承認印が多く見られる。
[11] わが国におけるコア・システムの導入としては、1912(明治45)年の「三井貸事務所」、1927(昭和2)年の「大阪建物東京ビル第一号館」(設計:渡辺節)等が知られる。注9参照。

現在の丸の内にも継承される「丸ノ内ビルヂング」の空間構成

大正後期には事務所床の需要が急増し、巨大なアメリカ式高層事務所ビルである「丸ノ内ビルヂング」(1923[大正12]年竣工)が誕生する。東京駅が1914(大正3)年に開業したことも相まって、丸の内の中心は馬場先通りから東京駅側へと移り、東京駅側を正面として設計された。

「丸ノ内ビルヂング」の平面計画は、現在の高層事務所ビルに直結する特徴がふたつある。ひとつはエレベータを主とした玄関ホールである。大正期からエレベータを主軸とする建物が主流となったが、それでも昔ながらの好みで階段が玄関を飾る演出として付けられていた。しかし、「丸ノ内ビルヂング」ではそれをやめ、広々としたホールにズラリと10台のエレベータを並べた。そして、特筆すべき2点目は、1階に十文字状にアーケードを通しその両側に複数の店舗区画を配置したことである[12]。アーケードは歩行者の自由な通行が可能で、お店を覗きながら街の路地を歩くような感覚をビルの中にも取り入れることに成功した。今では、高層ビルの低層部を商業施設等として一般の人びとが自由に出入りできる賑わい空間とするのは当たり前となっているが、このような「ストリート性」をビルの中に引き込んだのは日本では「丸ノ内ビルヂング」が初めてであり、現在の丸の内にも脈々と継承されている空間構成である。

[12] 野村正晴「震災補強工事による旧丸ノ内ビルヂングの建築計画の変化―三菱財閥と丸ノ内地区開発その2」(日本建築学会計画系論文集、2011[平成23]年)で、補強工事に伴って事務室空間だった2階も商店空間へと転化されていく過程を明らかにしている。

戦後以降の丸の内の発展的継承

戦後、高度経済成長期下の丸の内では、老朽化し時代遅れの感もあった赤煉瓦街を変革させるべく「丸ノ内総合改造計画[13]」が始動した。まず戦後のビルが戦前と大きく変わった点は、事務所の奥行がせいぜい7~8mだったところが約18mと、ほぼ倍に広がったことである。それは照明や空調設備の普及によるものと思われ、採光のための光庭も必須ではなくなった。

一方、当初の街区を統合して約100m角の巨大街区となったが、建物正面となる通りの性格付けや事務所の基本的な構成は、戦前までに到達したものと大きくは変わっていないように思える。特に「国際ビルヂング」(1966[昭和41]年竣工)や「日本ビルヂング」(1962[昭和37]年竣工)等、この時代の「ビルヂング」は基本的にすべて、ビル内を縦横に横断して自由に人びとが通行できる1階コンコースを設けており、「丸ノ内ビルヂング」(1923[大正12]年竣工)で到達した都市とビルの関係性を踏襲している。

その代わり、戦後以降はこれまで築き上げた丸の内を発展的に継承させた。都市基盤を再構築し地下歩行通路や地域冷暖房施設といった都市基盤ネットワークの形成、モータリゼーションに対応した地下駐車場の整備等、都市的スケールで街に必要な機能を加え、建物同士でネットワーク化させる取り組みが平面計画に見られる。

それらの取り組みは1995年に発表された「丸ノ内ビルヂング」再開発を皮切りに始動した第3次開発においてもよりいっそう発展的に継承され、よりスケールを増し機能を充実させて丸の内の価値を高めている。

[13] 1959(昭和34)年に始動した「赤煉瓦地帯建物改築計画」いわゆる「丸ノ内総合改造計画」では、ビルの建て替えを1期、2期と増築を伴いながら段階的に推進した。それに伴い、東西仲通りは廃止され、仲通りが13mから21mへ順次拡幅整備されていった。社史 下巻。

[PROFILE]

鰐淵 卓わにぶち たく

1991年 東京都生まれ
2015年 東京工業大学工学部建築学科卒業
2017年 東京工業大学大学院理工学研究科
建築学専攻修士課程修了
2017年 三菱地所設計入社
現在 三菱地所設計都市環境計画部

桐澤 航きりさわ わたる

1984年 福島県生まれ
2007年 日本大学理工学部建築学科卒業
2009年 日本大学大学院理工学研究科
建築学専攻修士課程修了
2009年 三菱地所設計入社
現在 三菱地所設計 リノベーション設計部 アーキテクト