130th ANNIVERSARY

Youtube

三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973 三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973

都市づくりから婦女子の領分に飛び込んだ建築家2代目技師長 保岡勝也著者/内田青蔵|建築史家

画像提供:三菱地所

はじめに

保岡勝也は、自らの求めた人生を素直に貫いた人と言える。著名な建築家の辰野金吾(1854─1919[嘉永7─大正8]年)が50歳を境に権威ある東京帝国大学教授の身分を捨てて市井の建築家となったように、保岡も35歳を境に三菱合資会社の2代目技師長という輝かしい肩書きを捨てた。辰野の場合は、自己を抑えて国家に尽くした建築家から自己を解き放した建築家への変貌と言えるが、一方の保岡は、日本の最初のオフィス街づくりから、主婦を対象とした中小規模住宅の設計を担うという建築家の新領分を切り開こうと邁進する姿が見える。

三菱への入社

1877(明治10)年に東京で生まれた保岡は、1900(明治33)年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。卒業設計のテーマは「Design for a National Bank」。当時の「日本銀行」(1896[明治29]年竣工)は、辰野金吾の設計で竣工したばかりの余韻が残っていた時期であった。保岡のデザインは、古典主義に則ったもので、辰野の日本銀行ときわめて類似している。そのため、日本銀行をテーマにしたのは、辰野への挑戦というよりも憧れによるものだったようだ[1]。

大学卒業後の1900(明治33)年8月、保岡は三菱合資会社に技士として入社した。入社の動機は不明だが、曾禰達蔵(1852─1937[嘉永5─昭和12]年)の退社後に技師長に就任しており、入社時から曾禰が自らの後継者を辰野に依頼していたのかもしれない。

入社後は、曾禰設計の「三菱銀行神戸支店」(1897[明治30]年竣工)が竣工間際であった神戸建築事務所に配属された。その後、丸ノ内建築事務所に移り、「第4号館」(1904[明治37]年竣工)と「第5号館」(1905[明治38]年竣工)の設計に関わり、また、「大隈重信伯爵邸洋館部」と「早稲田大学附属図書館」(いずれも1902[明治35]年竣工)の設計を行った。

一方、仕事の傍ら保岡は、上司の岡本春道の長女と結婚している[2]。岡本は「岩崎茅町邸」の和館(1896[明治29]年竣工)の設計者で、日本の伝統建築に精通した技師でもあり、保岡は結婚を通して伝統建築とも深く関わる機会を得たのである。

1 『工学博士 辰野金吾伝』付録(辰野葛西事務所、1926[大正15]年)。保岡は辰野の1周忌のあいさつの中で、在学中に辰野を「おやじ」と呼び、卒業後も辰野の事務所で手伝いをしていたことを回顧している。
2 北沢造園 北沢周平氏作成資料「保岡勝也」参照。保岡の長男は1902(明治35)年生まれであり、その前には結婚していたものと思われる。

技師長時代の業績

入社2年後の1902(明治35)年11月、保岡は突然、大学院進学を理由に退社した。研究テーマは劇場に関するものだったようで、大学院時代には『建築雑誌』に数多くの論文を寄稿している[3]。また、保岡は最年少の評議員として1904(明治37)年度の建築学会新役員に名を連ねた。その才能は若くして高く評価されていたことがうかがえる。

大学院を終えると、再び保岡は技師として戻った。そして、1906(明治39)年10月には曾禰が退社して建築顧問に退いたため、保岡が2代目技師長となった。保岡の技師長時代の業績は既によく知られ、①赤煉瓦時代の丸の内を完成させた、②クイーン・アン様式の仲通りをつくった、③鉄筋コンクリート造を展開した、の3点に集約される[4]。

保岡の引き継いだ当時の丸の内を見てみると、「第1号館」(1894[明治27]年竣工)から「第7号館」(1904[明治37]年竣工)までが完成していた。馬場先通りに建てられた「第1号館」から「第5号館」(1905[明治38]年竣工)や、仲通りを挟んで建てられた「第6・7号館」(1904[明治37]年竣工)など、一丁倫敦ロンドンの街並みを見せていた。保岡は1912(明治45)年に退社したため、在籍期間はきわめて短かったが、一気加勢に「第8号館」(1904[明治37]年竣工)から「第20号館」(1912[明治45]年竣工)までの13棟を完成させ、「第21号館」(1914[大正3]年竣工)の基本設計も行っている[5]。仲通りには「第8号館」から「第15号館」(1912[明治45]年竣工)、「第18号館」(1912[明治45]年竣工)、「第20号館」の10棟が建てられ、街並みを形成した。特に注目されるのは、赤煉瓦に白い石を組み合わせた辰野式の原型であるクイーン・アン様式によるファサードを左右対称に配置して景観を完成させたことである。

また、「第14号館」(1912[明治45]年竣工)以降は煉瓦造をやめ、鉄筋コンクリート造へと一気に建築を進化させた。すなわち、『建築雑誌』1911(明治44)年7月号誌上の「第12・13号館」(第12号館:1910[明治43]年竣工、第13号館:1911[明治44]年竣工)の解説の中で「鉄筋コンクリートを使用すると壁厚を減じ得る」ため「営業上好都合」と、その理由を述べている[6]。これだけを見ると経済性優先による導入と解釈されてしまうが、保岡は、当時の建築界でも鉄筋コンクリート造に詳しいひとりだったのである。

3 劇場研究の成果として「本邦劇場舞台改良の進路」(『建築雑誌』204号 1903[明治36]年12月号)、「泰西劇場の火災年表」(1798年以降) (『建築雑誌』206号 1904[明治37]年2月号)等がある。一方、住宅の室内装飾に関しては「住家の室内装飾に就て(一)」(『建築雑誌』209号 1904[明治37]年5月号)以下、連載が224号の1905(明治38)年8月号まで12回続く。
4 藤森照信「丸の内をつくった建築家たち─むかし・いま─」『新建築1992年4月別冊日本現代建築家シリーズ15三菱地所』(新建築社、1992[平成4]年)。
5 同上。
6 『建築雑誌』1911(明治44)年7月号。

保岡の鉄筋コンクリート造に関する寄稿

保岡は、鉄筋コンクリート造の工法等に関するいくつかの論考を『建築雑誌』に寄せている。最初は1905(明治38)年8月号の「混凝土壁の表面仕上げに関する片々」で、コンクリート造の流行は「疑いなきを信ずる」として仕上げの方法を紹介しつつも、最終的には海外の文献に従うのではなく、実験を基に独自の方法を探るべきだと述べている。また、同年12月号の『Builder’s Journal』掲載の記事を紹介した「白耳義に於ける鉄筋混凝土」では、鉄筋コンクリート造の利点として、①工費が安い、②耐火性、③耐久性、④自在な形状製作、⑤迅速な施工、などの諸点を掲げ、また、配筋の方法と共に施工で最も重要な点として仮枠の構造を紹介している。保岡の論考は、海外の文献を通して学んだものだが、鉄筋コンクリート造の可能性を予見していたのである。

「第21号館」に見る新しい平面計画

この鉄筋コンクリート造の導入と共に、保岡が手掛けた作品の中で最も注目されるのが最後に設計を終え、1914(大正3)年6月完成した「第21号館」である。その理由は、それまでの建物がそれぞれ専用の入口を持つ棟割形式であるのに対し、エレベータの配置などには問題があったものの、「第21号館」は共通の入口とエレベータを用いるフロア貸しビルの形式を取り入れたものだったからである[7]。こうした新しい平面計画は鉄筋コンクリート造に関する知見と同様に海外の文献や「米人は機械力を以て手軽く大建築を仕上げる手際は敬服の外無」と述べている1908(明治41)年の欧米出張[8]などに負うところが大きかったと思われる。

そしてまた、中庭型の平面計画も新たな特徴だと言える。採光・通風には中庭型がふさわしいが、床面積的には中庭は無駄である。この初めての中庭型平面の導入は、居住性を意識した保岡ならではの試みでもあったように思われるのである[9]。

7 注4参照。
8 「消息」(『建築雑誌』No.2581908[明治41]年6月号)。保岡が出張中に曾禰に宛てた書簡が紹介されている。
9 保岡は『建築雑誌』で、「室内の採光について」(No.195号)、「室内の採温及び換気(一)」(No.226)などを積極的に発表している。

結びにかえて……“生活”を扱う住宅作家へ

保岡は、1912(明治45)年5月、病気を理由に三菱合資会社を退社した。そして、退社と共に三菱在籍中に手掛けた作品集『新築竣工家屋類纂』(須原屋書店、1912[明治45]年)を発行している。そこでは、その後の姿勢を予見させるかのように住宅建築や和風の茶亭などを紹介していた。

1913(大正2)年、銀座に保岡勝也事務所を開設した。そして、1915(大正4)年には婦人文庫刊行会から中流層の主婦向けの住宅啓蒙書である『理想の住宅』を刊行し、住宅作家としての道を切り開き始めた。

ただ、こうした中小の住宅づくりという新領分へと進むのだが、ここでひとつの疑念が浮かぶ。保岡の退社が人付き合いの苦手な気難しい人であることが理由だったため、個人事務所を開かざるを得なかったと言われていることである[10]。はたしてそうだったのか? 気難しい性格の人が主婦相手の設計ができるのかという素朴な疑問が浮かぶ。独立後の保岡の施主との対応の記録を見ていると、自らのイメージを立体的な彩色画として描いて見せたり、依頼された建築のファサードを数種用意し、施主に選ばせるという事例が散見される[11]。それは施主の好みを最優先する方法で、決して自らの主張を押し付けるようなことはしていない。おそらく、保岡は施主の顔の見えない街づくりや貸しビルの設計より、顔の見える施主を相手にすることに建築家のもうひとつの姿を見たのではあるまいか。いずれにせよ、建築家の自己表現としてだけではなく、生活に思いを馳せ、 施主の豊かな日常生活の場を提示することも使命と思う建築家が出現したのである。仕事内容は、三菱時代のものとはまったく次元の異なるものだったが、三菱の仕事から触発され自らの使命と生き方を見つけたのだと思う。ひとつの道を全うするのもよし、また、道を変更して進むのもよし。建築家の役割は、無限にあることを保岡は教えてくれている。

10 藤森照信『昭和住宅物語』(新建築社、1990[平成2]年)。ここでは、山下寿郎の聞き取りとして保岡について「大変に難しいお人柄の人で、結局、上とも下とも合わなくて辞職されました」と紹介している。
11 1936(昭和11)年竣工の川越に現存する「旧山吉デパート」の設計時には、ファサードとして6種のファサードを用意している。

[PROFILE]

内田 青蔵うちだ せいぞう

1953年 秋田県生まれ
1975年 神奈川大学工学部建築学科卒業
1983年 東京工業大学大学院博士課程単位取得満期退学
1985─95年 東京工業大学工学部附属工業高等学校教諭
1995─2006年 文化女子大学助教授、教授
2006─09年 埼玉大学助教授、教授
2009年─ 神奈川大学教授。

専門は、近代日本建築史 工学博士。著書に『あめりか屋商品住宅』(1987年)、『日本の近代住宅』(1992年)、『同潤会に学べ』(2004年)、『新版図説近代日本住宅史』(共著2008年)等。