130th ANNIVERSARY

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三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973 三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973

丸の内で、ひたむきに創り続けた建築家初代技師長 曾禰達蔵著者/平井ゆか|内田祥哉建築研究室

画像提供:三菱総合研究所

三菱が丸の内に、日本初のオフィス街区創設へと大きく動き出した1890(明治23)年に入社し、初代技師長に就任した曾禰達蔵。幕末から昭和まで激動の時代を生き抜き、日本人初の建築家のひとりとして、85年の生涯を閉じるまで現役であり続けた曾禰の人生を辿り、人となりを探る。

武士から建築家へ

黒船来航の前年、1852(嘉永5)年11月24日、江戸唐津藩邸に生まれる。父は江戸詰めの唐津藩士で祐筆を務めた。10歳で藩主の後継ぎ小笠原長行(1822─1891[文政5─明治24]年)公の小姓となり可愛がられた。少年時代の曾禰は、大名屋敷が並ぶ丸の内を主君に従い歩いていた。平和な時代は長く続かず、1868(慶応4)年に戊辰戦争が起きると、旧幕府軍として戦う主君の甥、小笠原胖之助(1852─1868[嘉永5─明治元]年)公に従い戦場に身を置くが、北へと敗走する旧幕府軍から離れ帰藩するよう、公命を受け曾禰はひとり生き延びる。生まれながらに定められていた武士としての一生が、明治維新によって突然白紙になり、16歳にして世界が一変する。

曾禰は唐津の地で、新しい生き方を探し始める。その手がかりが1871(明治4)年に唐津藩の興した洋学校、耐恒寮だった。英語の教師に招かれたのは、後の内閣総理大臣 高橋是清(1854─1936[嘉永7─昭和11]年)、まだ17歳だった。唐津で生まれ育った辰野金吾(1854─1919[嘉永7─大正8]年)も共に学んだ。藩の事情で1年余りで閉校されるが、ここで曾禰は生涯の師と友に出会い、新しい人生へ大きな一歩を踏み出す。

東京に戻った高橋を頼り上京し、手に職をと曾禰が選んだ道は工学寮、後の工部大学校造家学科(現 東京大学建築学科)だった。1873(明治6)年、第1回入学試験に受かり官費生として入寮。政府の招きで来日した英国人建築家 ジョサイア・コンドル(1852─1920年)に西洋の建築教育を受ける。曾禰はここでも師匠に恵まれ、生涯親交を深める。1879(明治12)年、一回生として辰野と共に卒業し、日本人で最初の建築家となった。

志を胸に邁進した三菱時代

卒業後は工部大学校助教授をはじめ工部省や海軍省等で働くも、学んだ力を十分発揮する機会に恵まれず、38歳で意を決して呉鎮守府建築部長を辞職し、三菱社の建築顧問に就いた恩師コンドルの推薦により、1890(明治23)年9月建築士として三菱社に入社する。

曾禰は、陸軍省から払い下げられた、丸の内の8万余坪の土地の都市計画と建築計画を任される。丸の内には、皇居の正面に近代オフィス街を建設し、東京の美観と新興日本の文明を内外に知らしめようという、当時の社長 岩崎彌之助(1851─1908[嘉永4─明治41]年)と管事 荘田平五郎(1847─1922[弘化4─大正11]年)の想いがあった。そのため耐火、衛生、都市の美観を考慮した非木造洋風建築に限定し、高さも揃え、恒久的な都市計画をもって建設が進められた。荘田やコンドルと共に、曾禰はその実現に向けて邁進していく。

着任当時、丸の内には正確な地図すらなかったため、初仕事は実測から始まった。まだ一般的でなかったボーリングによる地質調査も実施し、明らかになった軟弱地盤の対策に苦心していく。それらを元に必要な私道の増設や建物の配置、道路や下水はどうすべきかなど、あらゆることを検討し、整備が進められた。

第1号館」(1894[明治27]年竣工)の竣工間際にかなりの地震があり、現場監督で足場に登っていた曾禰は、万一建物が崩れたらその瓦礫の中に身を投じる覚悟をしたという。武士を思わせる発想だが、強い責任感と、新しい街の最初の建築への並々ならぬ覚悟が伝わってくる。

曾禰は丸の内の「第1─7号館」の建設に携わるが、個々の建物より街並みを意識し、デザインに統一感を持たせた。コンドルと共に建てた「第1・2号館」(第2号館:1895[明治28]年竣工)の間に「第4・5号館」(第4号館:1904[明治37]年竣工、第5号館:1905[明治38]年竣工)を建て、馬場先通りの一丁倫敦ロンドンと言われた街並みをつくり、「第6・7号館」(第6・7号館:1904[明治37]年竣工)を三菱社の新設した私道、仲通りに面して初めて建設した。「第3号館」(1896[明治29]年竣工)まで建てた頃、貸事務所の需要が伸び悩んだため「第6・7号館」は賃貸住宅兼用事務所として建てられたが、日露戦争の好景気で需要が増加し、すぐにすべて事務所仕様に改造された。

1901(明治34)年岩崎久彌社長(1865─1955[慶応元─昭和30]年)に随行し米国経由でロンドンへ視察に出張した際、曾禰はブロードウェイの道に横たわって舗装のつくりを調べたという。当時、丸の内の道路に砂利や板石敷きを試すも見栄えがよくなく、舗装方法が懸案事項だった。入社して10年以上経っても、丸の内を日本を代表するオフィス街へとの曾禰の志は衰えることがなかった。

地図づくりから始まった新しいオフィス街の創造は、国内に例がなく、初めてのことばかりで困難だったが、技術好きで探究心が強い曾禰は全力で打ち込んだ。三菱社という優れた経営陣が舵取りする企業に身を置いたからこそ、志を胸に建築に没頭でき、さらに、海外の最新技術の情報や新建材を得るのにも恵まれた環境は、曾禰にとって幸いだった。

在職中、「三菱銀行神戸支店」(1897[明治30]年竣工)や「三菱合資会社 三菱造船所 占勝閣」(1904[明治37]年竣工)など丸の内以外の三菱関係の建物も設計している。中でも「占勝閣」は最も曾禰らしさが現れた作品と言える。

在野でも最初期の建築家の使命を果たす

一方、官職を辞めて民間で働きながら、最初期の建築家の使命のように公の務めも並行して果たしていた。1893(明治26)年震災予防調査会委員を内閣から仰せつかり、1894(明治27)年に秋田・山形地方、1896(明治29)年に秋田・岩手地方等、震災調査で各地に出張し、その報告を発表、大学で後進の指導も行い、創立から関わる造家学会(現 日本建築学会)の各種委員も担い、度々講演も行った。

1893(明治26)年には、日本の代表として初めてシカゴ万国博覧会と万国建築家大会に出席するためアメリカへも出張している。この渡米には三菱社の建築技師としての視察と、建築学会の代表として同大会へ出席、コンドルの代理として同大会で論文を朗読、帝国大学工科大学(現 東京大学)講師として米国における鉄骨構造の調査等の使命があった。

1899(明治32)年3月には建築界への貢献が認められ、工学博士の学位を授かる。その後も1903(明治36)年日本建築学会副会長を務める傍ら、建築語彙編纂委員会会長を委嘱され1918(大正7)年まで語彙編纂に尽力する。同年、臨時議院建築局顧問になり意匠設計審査員として熱心に審査にあたり、1906(明治39)年学会において東京市建築条例起稿委員会会長を委嘱され、1913(大正2)年5月まで条例の起稿に尽力した。

定年後に戦前最大の設計事務所を主宰

1906(明治39)年10月三菱合資会社を定年退職し、同社建築顧問に就き、自身の建築事務所を開くが、1908(明治41)年1月には中條精一郎(1868─1936[慶応4─昭和11]年)と協同で建築事務所を丸の内に開設する。自ら携わった仲通りの地下1階、地上2階建て煉瓦造、「第7号館」の一戸だった。

曾禰中條建築事務所は、主宰者の個性を前面には出さず、三菱のような組織設計事務所で、優秀な建築家を複数抱え、彼らの力を活かしながら事務所の作品として常に高い品質を保持した。海外の最新技術もいち早く取り入れつつ慎重に実験を繰り返し、日本に適している確証が得られると作品に活かしていった。構造に若き日の内田祥三(1885─1972[明治18─昭和47]年、後の東京帝国大学総長)の力を借りて建てた日本初の7階建て高層ビル「東京海上ビルディング」(1918[大正7]年竣工)や、「日本郵船ビルディング」(1937[昭和12]年竣工)といった丸の内の行幸通りの代表作をはじめ、29年間に約230もの作品を手掛けた。戦前最大と言われる事務所に発展したのは、中條というパートナーに恵まれたことと、三菱での経験と実績、そこで得られた縁と信用があったからこそと言えるだろう。

曾禰達蔵の人となり

曾禰中條建築事務所の最初期の代表作、1912(明治45)年竣工「慶應義塾創立五十年記念図書館」(重要文化財)の設計依頼を受けたのは、曾禰が単独で事務所を開設した頃だった。同校の評議員会議長を務めた荘田の推薦もあり、人格を高く評価され設計者に選ばれた。当時塾長は在学生に、設計者決定の知らせと共に、建築に限らず人の仕事は携わる人間の精神が映し出されるものだから修養を心がけよ、と訓話したという。

また、1928(昭和3)年に、顧問を勤める明治生命から新社屋の設計依頼を受けた曾禰は、指名コンペを提案し、後進の建築家8組を推薦した。岡田信一郎(1883─1932[明治16─昭和7]年)案が選ばれたが、着工後、信一郎が急逝し、引き継いだ弟の捷五郎(1894─1976[明治27─昭和51]年)を支えるべく、曾禰も現場に足繁く通ったという。設計に関して意見する時には「僕はこう思うが君はどうだね」と説き、まるで慈父のようだったと、後に捷五郎は追想している。

事務所の30周年を目前にした1937(昭和12)年12月、温厚で無類の読書好きだった曾禰らしく、枕元に積み上げた本から病院へ持参する数冊を自ら選び、「眼鏡を取ってくれ」という言葉を残してこの世を去った。

三菱地所に残る貴重な古図面

三菱地所は創業当時からの図面を大量によく残している。メンテナンスのためだけではなく、検討案なども含め記録として保存している。これは曾禰時代からの習慣かもしれない。時を経てこの古図面は歴史研究の貴重な資料になった。誰よりもこの資料を研究したいのは、歴史家になりたかったとよく口にした曾禰自身だろう。

三菱地所設計の古図面研究会に参加し、三菱社の図面の中に、曾禰中條建築事務所でも愛用していた「達蔵」印を発見した。小さなひとつの印鑑に、激動の時代を生き抜きながら、変わらず真面目に、穏やかに、不器用なほど何事にも一所懸命に生きた曾禰らしさを感じた。


参考文献
1 『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』(三菱地所、1993[平成5]年3月)
2 『新建築1992年4月別冊日本現代建築家シリーズ15三菱地所』(新建築社、1992[平成4]年)
3 『曾禰達蔵中條精一郎建築事務所作品集』(中条建築事務所、1939[昭和14]年5月15日)
4 『岩崎弥之助傳 下 岩崎家傳記四』(東京大学出版会、1971[昭和46]年)

[PROFILE]

平井 ゆかひらい ゆか

1968年 東京都生まれ
1992年 明治大学工学部建築学科卒業
1994年 明治大学大学院工学研究科建築学専攻博士前期課程修了
1994年─ 内田祥哉建築研究室所員。

共著に、『一丁倫敦と丸ノ内スタイル』(求龍堂、2009年)、『日本近代建築家列伝』(鹿島出版会、2017年)。