130th ANNIVERSARY

Youtube

三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973 三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973

最後の技師長、そして技師長不在の時代へ鷲巣昌と所員たち著者/鰺坂徹|鹿児島大学工学部建築学科 教授

画像提供:三菱地所

最後の技師長・鷲巣昌

第二次世界大戦終戦直後の三菱地所設計監理部門は戦時中の三菱グループ各社の関連工事の影響で社員が増え、140人あまりの技術者が在籍していた。うち半数は、大阪、名古屋、水島の各建設事務所、福岡事務所、苅田建設課[1]に残留し、1940(昭和15)年から技師長を務めた藤村朗(1887─1966[明治20─昭和41]年)の下、さまざまな業務に取り組んでいた。

藤村が終戦直後の1946(昭和21)年12月に三菱地所の社長に就任したため、1947(昭和22)年12月に鷲巣昌が入社し技師長に就任した。1892(明治25)年生まれの鷲巣は、三菱社の丸ノ内建築所において「第13号館」(1911[明治44]年竣工)の設計を担当した東京帝国大学(現 東京大学)教授・内田祥三(1885─1972[明治18─昭和47]年)の教えを受けた人物で、同期には吉田鉄郎(1894─1956[明治27─昭和31]年)らがいた。1919(大正9)年に卒業後、横河民輔(1864─1945[文久4─昭和20]年)率いる横河工務所に入所、その年の6月頃から日本橋の三十間堀の対岸楓河岸にあった事務所に勤め始めた。事務所は建坪70坪(約230㎡)ほどのモルタル塗り煉瓦造で、2階に20人ほどの所員が勤め、出勤簿もなく堅苦しくなく、「年齢、業歴、能力という様なものから自然各人間の順位が定まって、適当な節度が守られ所内の秩序が乱れる事は決してなかった」[2]と言う。鷲巣は、隣接した堀の臭気にひどく閉口したようだが、横河の右腕だった中村伝治(1880─1968[明治13─昭和43]年)の計らいで、経験を積んだ先輩所員につき、多様な実務を学んだ。鷲巣は、丸の内の「日本工業倶楽部」(1920[大正9]年竣工)のインテリアを担当した。横河工務所の同時期作品に「猿江小学校」(1920[大正9]年竣工)、「千代田生命本社」(1923[大正12]年竣工)があり、これらに関わった可能性も考えられる。

関東大震災の翌年、1923(大正12)年、内務省によって同潤会が設立されると、鷲巣は、内田祥三の誘いでここに参加する。同潤会では、同じ内田祥三の門下生で、同潤会部長の川元良一(1880─1977[明治13─昭和52]年)の下で働き、同潤会アパートメントの設計に携わったと考えられる。川元は、三菱の地所部で桜井小太郎(1870─1953[明治3─昭和28]年)技師長時代に、「三菱合資会社銀行部」(1922[大正11]年竣工)や「仲2号館」(1919[大正8]年竣工)を担当、その後、「丸ノ内ビルヂング」(1923[大正12]年竣工)の建設に関わり、内田に同潤会へ呼び戻された人物である。その同潤会が1934(昭和9)年に解散後、鷲巣は、横浜市建築課長となる。1939(昭和14)年に、山下公園に「インド水塔」を設計した。終戦後、三菱地所に技師長として着任した後、1948(昭和23)年三菱地所取締役、1950(昭和25)年には常務取締役、1964(昭和39)年に専務取締役となり1965(昭和40)年に退任した。なお、三菱地所の社史によると鷲巣が常務取締役になった以降は技師長が空席[3]となっている。

[1]「三菱地所株式会社と私」『鈴木昇太郎回顧録』(1981[昭和56]年5月)
[2]鷲巣昌「楓河岸の頃」(『建築夜話 : 日本近代建築の記憶』日刊建設通信新聞社、1962[昭和37]年)
[3]『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史 資料・年表・索引』(三菱地所、1993[平成5]年)には、空席とあるが、1956(昭和31)年の三菱地所会社社員名簿には「常務取締役 技師長 事務取扱」の記述があり技師長という役職がいつまであったか今後再確認が必要か。

戦後間もない丸の内の設計

終戦直後の混乱期に鷲巣は技師長として迎え入れられたが、極度のインフレの中、建設資材もなく、被爆建築の復旧工事、炭鉱住宅や木造の社屋といった設計が主で、札幌建設事務所開設をはじめ、地方を含めて「自活するための業務」に忙殺されていた。それまでの技師長が丸の内の大規模建築に関与していたことを考えると雲泥の差であったと思われる。

1949(昭和24)年12月、「仲9号館」跡地に「中重ビルヂング(仲9号館別館)」が、そして、ようやく1950(昭和25)年6月に「東京ビルヂング」が着工した。これら丸の内の戦後最初の大規模建築の着工時に、鷲巣の役職は技師長から常務取締役に変わっている。同年8月、「永楽ビルヂング」(1952[昭和27]年竣工)の工事が始まると、翌1951(昭和26)年、いよいよ、戦時中工事を中断し貯水池となっていた「新丸ノ内ビルヂング」が着工した。「新丸ノ内ビルヂング」は、1952(昭和27)年に竣工し、冷房の一部導入に加え、丸の内初の全館蛍光灯ビルとなった。1952(昭和27)年の対日講和条約発効前後から連合軍による接収の解除が始まり、1953(昭和28)年に三社(三菱地所、陽和不動産、関東不動産)が合併し「新生」三菱地所が誕生した。

1958(昭和33)年、当初「第三丸ノ内ビルヂング」とも呼ばれた「大手町ビルヂング」が竣工した。31mに9層を納めた長さ200mの巨大事務所建築で、採光規定を満たした美しいスチールサッシが取り付けられた。設計はアントニン・レーモンド(1888─1976年)の事務所で番頭を務めていた杉山雅則(1904─1999[明治37─平成11]年)で、この杉山が戦後の丸の内のデザインに大きく関与していく。レーモンドは戦争の暗雲が立ち込めてきた1937(昭和12)年に離日し、1941(昭和16)年事務所を閉鎖、杉山ら所員は三菱地所等に身を寄せた。1948(昭和23)年に再来日したレーモンドが事務所を再開すると、双方からの要望で、杉山は一時、半日はレーモンド、半日は三菱地所といった勤務もしていた[4]が、戦時中の恩義からか、三菱地所に残った経緯がある。

同時期に「新大手町ビルヂング」が着工するが、計画地にあった旧朝鮮銀行東京支店を所有していたファーストナショナルシティバンクニューヨークの移転先として赤煉瓦街の一部を取り壊し鉄筋コンクリートの建築を新築して提供しようと交渉したが、先方が、赤煉瓦街一帯はニューヨークのハーレムを連想させ、一流銀行にはふさわしくないとの回答を出したという出来事があり、それが「丸ノ内総合改造計画」の引き金になったと言われている。

[4]藤森照信「丸の内をつくった建築家たちーむかし・いま」『新建築1992年4月別冊 日本現代建築家シリーズ15三菱地所』(新建築社、1992[平成4]年)

丸ノ内総合改造計画と設計体制

高さ15mほどの組積造の赤煉瓦街を、仲通りに並行していた東西仲通りを廃道し「丸ノ内ビルヂング」とほぼ同じ大きさの街区にまとめ、一団地認定により整形な31mの近代的なオフィス群に改築する「丸ノ内総合改造計画」が着手された。最初に1959(昭和34)年、「千代田ビルヂング」が着工し、1973(昭和48)年頃まで順次建て替えが続けられていく。

1953(昭和28)年5月、三菱地所建築部が建築第一部と建築第二部に分割され、建築第二部が建築設計を担当した。鷲巣が現役を退いた直後の1966(昭和41)年に担当業務の実態に合わせて第一建築部が建築部、第二建築部が設計部という名称になった。1970(昭和45)年には、設計部が第一建築部、第二建築部、第三建築部、住宅建築部に細分化され、各部に意匠、構造、設備、積算、工務の担当を配置した体制に変わり、三菱地所一級建築士事務所の中の複数の設計組織により、高度成長期の増大する設計監理業務を担っていった。

「大手町ビルヂング」から「三菱ビルヂング」(1973[昭和48]年竣工)までの37棟の意匠設計図約11,000枚の設計者を、図面に捺印された設計者印から分析すると、戦後の丸の内のビル群の設計には、5段階の設計体制の変化があったと考えられる。

第1段階は杉山雅則、梶谷裕一、渡辺寿一らがひとつのチームとなり、1958(昭和33)年着工の「東銀ビルヂング」の頃から同時並行に多数の設計を進めるようになる。第2段階では、杉山+梶谷(「東銀ビルヂング」、「千代田ビルヂング」、「日本ビルヂング」、「有楽町ビルヂング」、「新有楽町ビルヂング」)、杉山+渡辺(「富士製鐵ビルヂング」、「三菱電機ビルヂング」、「新東京ビルヂング」)という2軸となる。続く第3段階では、1963(昭和38)年に着工した「三菱重工ビルヂング」から、先のふたつのチームと異なり杉山印がほとんど見られない鱸恒治のチーム(「三菱重工ビルヂング」、「古河ビルヂング」、「国際ビルヂング」、「新国際ビルヂング」、「千代田ビルヂング別館」)が「丸ノ内総合改造計画」の設計に加わる。

鱸は、東京帝国大学卒業後、ル・コルビュジエ(1887─1965年)に学んだ坂倉準三(1901─1969[明治34─昭和44]年)が1940(昭和15)年に設立した直後の坂倉準三建築研究所に、西澤文隆、駒田知彦と共に入所、「飯箸邸」(1941[昭和16]年竣工)等を担当した。1944(昭和19)年に三菱地所に入社し、ガラスブロックの外装が美しかった「東京瓦斯ビル(呉服橋ビル)」(1954[昭和29]年竣工)の設計を担当した。この作品はとりわけ外部の評価を得た名作のひとつに数えられる[5]。鱸が丸の内のビル群で関わりを持ったのは、唯一「仲9号館別館」(1951[昭和26]年竣工、1956[昭和31]年増築)のみだったが、1966(昭和41)年に、設計部の部長に就任、翌年には取締役、常務[6]と昇格しながら設計部全体を把握していったので、それ以降の第4段階、1973(昭和48)年までの「丸ノ内総合開発計画」に関する設計図にも鱸の捺印が確認される。鱸の下には、渡辺寿一、梶谷裕一、中島昌信、建畠惣弥、向田長和、鈴木卓爾、須藤祥夫らが当時の名簿で確認され、「タイム・ライフビルヂング」(1968[昭和43]年着工)は梶谷、「三菱ビルヂング」は中島の捺印が多い。

この約20年間の丸の内のビル群のデザインは、赤煉瓦街から踏襲された街路を挟んだファサードの統一や設計体制、時期によるデザイン、ディテールも異なっているがここでは紙面の都合で触れない。戦後、技師長として鷲巣が着任し、杉山が多くの丸の内の建築に関係し、その後、鱸の設計部長時代を経て、高度成長期の設計業務の拡大の中で、ひとりの建築家が設計を統制する仕組みから、各部の複数の建築家が設計の責任者となる、今日の仕組みへと変化を遂げていったのである。

[5]『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史 下巻』pp.78-79に日刊建設通信(1957[昭和32]年2月24日)に郵政省の建築家山中の印象が引用されている。
[6]1974(昭和49)年の名簿には常務取締役として掲載されている。

「東京瓦斯ビル」(左)、「仲9号館別館増築」(右)。(画像提供:三菱地所)

[PROFILE]

鰺坂 徹あじさか とおる

1957年 愛知県生まれ
1981年 早稲田大学理工学部建築学科卒業
1983年 早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専攻修了
1983年 三菱地所
2001年 三菱地所設計
2013年─ 鹿児島大学工学部建築学科教授。

現在大学では建築設計の授業を担当し、学生と麓集落の調査や街歩きマップづくりの活動、保存再生や図書館、小学校、オフィス等の研究を進めている。三菱地所設計では、「明治安田生命ビル街区再開発」(2010年日本建築学会業績賞)、「国際文化会館本館保存再生」(2007年日本建築学会賞業績)等の保存再生のプロジェクトや他の新築プロジェクトを担当。