130th ANNIVERSARY

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三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973 三菱地所設計創業130周年記念 丸の内建築図集 1890 - 1973

戦前から戦後のリレーデザインのキーマン4代目技師長 藤村朗 著者/野村和宣|執行役員 建築設計三部長

画像提供:三菱地所

時代の変革期に生涯通して在籍したアーキテクト

三菱社(三菱合資会社)・丸ノ内建築所から三菱地所・設計監理部門に至るまでに在籍していた技師長は5人を数える。曾禰達蔵(1852─1937[嘉永5─昭和12]年)・桜井小太郎(1870─1953[明治3─昭和28]年)・鷲巣昌(1892─1982[明治25─昭和57]年)の3名はいずれもキャリア入社のアーキテクトで、保岡勝也(1877─1942[明治10─昭和17]年)は新卒入社したものの定年を待たず退職して独立、技師長以外でも大学で建築教育を受けたアーキテクトで定年前に退職し独立した者は少なくない。しかし、4代目技師長を務めた藤村朗(1887─1966[明治20─昭和41]年)は入社から定年まで、さらにその後も相談役として生涯三菱地所の組織に在籍していた。それゆえに彼に関する既往の研究は、三菱地所関係の文献以外にはなく、建築界でもあまり知られていない。

1887(明治20)年北海道に生まれ、その後東京府に移住し、1911(明治44)年東京帝国大学(旧 工部大学校)を卒業して三菱合資会社地所部に入社した。当時の技師長は保岡勝也で、入社していきなり「第21号館」(1914[大正3]年竣工)の設計担当を任され、アメリカ式のオフィスビルを設計せよとの命題に戸惑いながら取り組んでいたことを語った話が残っている。「第21号館」の基本設計を終わったところで保岡が突然退社したため、1年後輩の山下寿郎(1888─1983[明治21─昭和58]年)らと共に実施設計をまとめた。「第21号館」の工事から桜井小太郎が後任技師長として加わり、以降、「三菱合資会社銀行部」(1922[大正11]年竣工)、「第22号館」(1918[大正7]年竣工)、「丸ノ内ビルヂング」(1923[大正12]年竣工)など、大正期から昭和初期にかけての主要な建物のほとんどの設計に桜井の片腕として関わっている。

「丸ノ内ビルヂング」完成と共に技師長・桜井小太郎はじめ多くの技師らが退社すると、藤村は桜井に代わって技術者のトップの役割を託され、1932(昭和7)年に地所課技師長に就任した。1937(昭和12)年6月に三菱地所が設立してからは取締役兼技師長、1940(昭和15)年常務、そして1946(昭和21)年12月から1948(昭和23)年6月まで三菱地所の社長の職を務めた。社長退任後は1956(昭和28)年5月に取締役に復帰し、「丸ノ内総合改造計画」の期間も相談役として関わり続けており、在任のまま1966(昭和41)年7月に永眠した。

藤村が技師長を務めた期間は、第二次世界大戦前後の時代で新築建物の数は少ないが、代表作としてはアメリカ式の高層事務所ビルのスタイルによる「仲28号館」(1926[昭和元]年竣工)や「八重洲ビルヂング」(1928[昭和3]年竣工)、モータリゼーションの普及を背景に計画された「丸ノ内ガラーヂビル」(1929[昭和4]年竣工)、戦前の計画段階から戦後の変更設計・工事を経て完成させた「新丸ノ内ビルヂング」(1952[昭和27]年竣工)、丸の内以外では「法曹会館」(1937[昭和12]年竣工)、「学士会館新館」(1937[昭和12]年竣工)などである。そして、今回の図面整理で分かったことであるが、震災後の耐震改修や棟割長屋形式の事務所ビルの中廊下型への大規模改修など、数多くの改修を手掛けたリノベーション設計の先駆者でもあった。

藤村朗は、「丸ノ内ビルヂング」建設と高度経済成長期の「丸ノ内総合改造計画」という丸の内構築の2度の絶頂期に関わっている。藤村朗こそ、戦前の三菱社(三菱合資会社)地所部から戦後の三菱地所設計監理部門へとDNAを受け継いだ重要な人物であったと言える。

[PROFILE]

野村 和宣のむら かずのり

1964年 東京都生まれ
1986年 東京工業大学工学部建築学科卒業
1988年 東京工業大学修士課程修了
1988年 三菱地所入社
2001年 三菱地所設計
2018年 東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士(工学)取得
現在 三菱地所設計 執行役員 建築設計三部長 兼 デザイングループ業務部長