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連載|ものづくりの視点

旧三菱一号館の松杭

岩井 光男

2月19日、私は朝から期待と不安の中にいた。その2週間前の2月5日、旧三菱一号館の復元工事が始まった。旧三菱一号館は煉瓦造、地上3階・地下1階建、イギリスビクトリア時代のクィーンアンスタイルで棟割り長屋の平面形式を特徴とする明治27年竣工のわが国最初の近代オフィスビルであった。設計はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの手によるもので、その弟子曾禰達蔵とともに精魂込めて造り上げた名建築であったが、戦後の高度経済成長の中で、昭和43年に解体された。今回の復元計画では可能な限り昔と同じ場所に当時の構法、構造で復元することが重要なテーマである。建物の位置の確定は難しいことではなく、残存する資料から昔と寸分の違いもなく決めることができた。とはいえ、昔の建物とつながる何らかの物的痕跡が欲しいと考えていた。その後に建てられ今回解体された三菱商事ビルは地下4階まであり、旧三菱一号館の遺構が残っている可能性は大変低いが、配置図から判断して大名小路に面する丸ノ内八重洲ビルとの境界あたりに可能性が残っていた。2月19日はその掘削調査の日であった。

午前中、関係者の見守る中、慎重に掘削作業が進められた。地上部から4m近くまで掘ったところで地層は黒い粘土層に変わった。そこには三菱商事ビルの建設工事に使われたと思われるシートパイルが残され、その回りに旧三菱一号館に使われていたであろうレンガの破片が出てきた。しかし直接の痕跡はなかなか見つからなかった。もう少し掘ってみようということでパワーショベルを2、3回往復させた時、地中であたりを感じた。現場担当者が回りを慎重に掘削したところ、地中に立つ丸太が出現した。私は、それが旧三菱一号館に使われた松杭であると確信した。旧三菱一号館の杭の位置図から見て、まさに杭の存在する場所であったからだ。百数十年ぶりに姿を現した松杭は復元工事への大きな贈り物のように感じられた。

三菱地所は、旧三菱一号館の解体時に詳細な記録や写真を残していた。また石の窓枠や鋳鉄の棟飾りなどいくつかの部材を採取していた。もちろん、コンドルが描いたスケッチや原設計図は大事に保管され、三菱地所設計に引き継がれてきた。残存する資料によって当時の材料に近いものを調達し、施工過程を再現することで昔の建物に近づくことは可能である。ただ、それでは技術的に復元工事を行うに過ぎないように思われ、私は三菱地所設計の原点ともいえる旧三菱一号館とその工事に携わった人々の存在を感じられる何かを求めていた。

百数十年ぶりに顔を出した松杭に触れた時、私の心に熱いものが流れた。旧三菱一号館に関わった人々、ジョサイア・コンドルや曾禰達蔵らと心が触れ合った瞬間であった。

三菱一号館復元工事の竣工は2009年春、丸の内に新たなステージを開く美術館として生まれ変わる。

旧三菱一号館の松杭