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連載|ものづくりの視点

合理化とものづくり

岩井 光男

三菱一号館の復元工事が竣工した。当欄でも何度か触れてきたが、1894年(明治27年)にジョサイア・コンドルの設計によって建設され、1968年(昭和43年)に解体されるまで、丸の内最初のオフィスビルとして親しまれてきた建物である。今日の丸の内の整然と落ち着いた街並みは1923年(大正12年)に竣工した軒高100尺(31m)、100m角の旧丸ビルを基準にした街づくりによる。しかし、常に全体を意識した街づくりは三菱一号館から始まったのである。馬場先通りを中心に軒高50尺(15m)、煉瓦組積造で統一された街並みは明治時代後期に完成し、一丁倫敦(ろんどん)と呼ばれ人々に親しまれた。

復元工事はコンドルや曾禰達蔵が中心になって描いた設計図や当時の建設資料、解体時の実測図や記録写真、残されていた建築部材の使用によってオリジナルに近いものが完成したと考えているが、我が事務所の元祖とも言えるコンドルや曾禰達蔵がどのような評価を下さるのか、いずれ「彼の世」で伺えるのを楽しみにしている。

今回の工事では煉瓦積み、石積み、木造小屋組、金属、木彫、左官、天然スレート葺きなどほとんどの工程において工事に携わる職人たちの手仕事の技量にたのむ部分が多かった。近年、建設工事は機械化が進み、部材は品質管理された工場で作られ、重機によって現場で組み立てられる。極端な言い方ではあるが、各部材が人の手に触れられることなく建物は完成してしまう。同一敷地内に27ヶ月の工期で同時に竣工した丸の内パークビルディングと三菱一号館では、建設工事に携わった延人数を比べると、前者が約96万人、後者は約5万人であった。前者の延床面積は205,000m2、後者は6,000m2であるから床面積一平米あたりの延人数は最先端の技術で建設された前者が4.7人、後者が8.3人となる。この数字からも機械化による合理化で現場における手仕事の減少の程がわかる。広辞苑には合理化とは「労働生産力をできるだけ増進させるため、新しい技術を採用したり企業組織を改変すること。実質的には超過利潤獲得の一手段となる」と書かれている。確かに建設現場でも積極的な合理化によって生産性や経済性は高まったが、そのために建築のディテールは単純化され、総ガラス張りのようなシンプルな何処にでもあるようなデザインが横行するようになった。この流れの中、高度な職人技の発揮される出番は減り、技術の伝承も途切れようとしていることに目は向けられていない。コンピューターによる仮想現実空間に遊び、石や天然木の擬似建材に囲まれた日常生活に慣れ親しんでいる私たちは、造られるプロセスおよび構造や材料の中身のような目に見えない部分の大切さを忘れがちである。

復元された三菱一号館は英国ビクトリア時代のクイーンアンスタイルの彫りの深い、表情豊かなディテールであるとともに、煉瓦、石材、天然スレートなど一つ一つが職人の手によって施工され、建物の隅々まで職人たちの意気込みと血の通った暖かみを感じさせる。また、15mの軒高は馬場先通りの銀杏並木の高さとほぼ同じ高さで、ヒューマンスケールな空間が街に潤いを与えている。オフィスビルの間に姿を現した三菱一号館を見て、現代の合理化されてしまった都心の街づくりでは機能性、経済性だけではなく人の手の温もりを感じさせる手づくりの文化を生かすことの大切さを改めて感じた。

合理化とものづくり