LIBRARY

連載|ものづくりの視点

「日本二十六聖人記念館・聖堂」によせて

大内 政男

先日、ある全国紙の特集面の写真に目を惹かれた。長崎にある建築家・故今井兼次氏設計の「日本二十六聖人記念館・聖堂」である。その写真は聖堂の二つの塔が青空に向かって力強く聳え立ち、人々の幸せを静かに願い、しかし力強く見守っているかのように見えた。何とも言えぬ爽やかで懐かしい、心温まる感情がこみ上げてきた。なんと優しい建築、なんと愛情に満ちた建築であろうか。この感情はどこから来るのであろうか。

私的な話になるが、筆者は何度かここを訪れている。最初は10代の後半、建築を志し、コルビジェやミースに陶酔していた当時、この記念館・聖堂は私にとっては理解の限界を超えたものであった。それでも何となく心の奥にあり、長崎に行くと必ずここを訪れた。訪れているうちに、それは多分、私自身が建築設計を業として経験を重ねていく過程で、人の匂い、人の想いが見えるこの建築の何とも言いがたい魅力に取り憑かれていった。

その建物は長崎の西坂という小高い丘の上にある。1597年、異教徒弾圧の歴史の中で二十六人のキリシタンが磔に処せられた地である。長崎駅前の急な坂を登るとすぐに殉教の丘と呼ばれる公園に到着する。正面にある二十六聖人のブロンズ像が並ぶ記念碑の横を通り抜けると、裏面に作られた「長崎への道」と呼ばれる石塁碑と中庭を挟んで相対する記念館の入り口が見える。記念館の入り口とこの石塁碑は、殉教者の苦しみを描きだした「殉教の柱」と呼ばれる捻じれた大木のようなコンクリート製の柱により支えられた「殉教の橋」と呼ばれるキャノピーで結ばれる。特徴的な聖堂の双塔の陶片モザイクや記念館の東西壁面にある陶片モザイク、中庭の石塁碑などは勿論すべてが手仕事である。陶片は京都で捕えられ長崎に送られた聖人の跡を辿り、瀬戸、織部、信楽、そして唐津、織部などから集められたという。この中庭の構成やフェニックスモザイクと自ら名付けた陶片モザイクには、建築家・故今井兼次氏の様々な想いが凝縮され表現されているが、それを論ずることが本論の主旨ではない。

この建物は不思議な建築である。屋根には僅かなムクリがあり、外壁のコンクリートルーバーの間には槍を模した柱型など特徴的な要素もあるが、記念館は合理的な構造形式の打ち放しコンクリートによるモダンな建物である。東西壁面にある陶片モザイクを除くと一見、普通の建物のようである。聖堂も陶片モザイクを施された双塔を除いては、特に変わった建物には思えない。それにも拘わらずそこからは人の匂い、人の想い、希望や畏れといった人間の根源的な感情が伝わってくる。それはコンクリートや自然石、木などの自然の材料が時を経ることによって醸し出される暖かさや懐かしさによる処もあるだろう。又、この記念館・聖堂が宗教的な建築である事もそうさせている。しかし一番の理由は別にある。一階の石積みの外壁や木製の格子、内部の扉や階段や手摺、吹き抜けのトップライトなど、この建物のあらゆる部分に丁寧に緻密に施されたディテール、そのすべてから一人の建築家の、また彼を支えた人々のこの建物に注いだ情熱が伝わってくる。陶片モザイクや石塁碑と同様に、この建物のあらゆる部分に込められた情熱や想いの集大成の建築だからこそ、希望や畏れといった人間の根源的な感情が伝わってくるのである。人への、創造への愛情に満ちた魅力的な建築である。

この建物は打ち放しのコンクリートや自然木など、今の時代でも私たちに身近な素材で構成されている。これらは、人の匂いや温もりを直接的に表現できる素材でもある。しかし、そこに創り手の情熱、想いを込めてはじめて、人の心に響く建築を創り得る事を、「日本二十六聖人記念館・聖堂」は私達に教えてくれている。

「日本二十六聖人記念館・聖堂」によせて